トリノの旅・センター占拠は今後、どうなっていきたいのか

2019/09/01 森石 かおり

◆ASILO OCCUPATO
 2019年3月末にイタリアのトリノへ行ってきた。約1週間、私はそこに住んで活動している友人(以下、S)に通訳・案内されて、ソーシャルセンターやスクォットコミュニティーを回った。Sは、トリノ中のスクォットコミュニティーはひととおり網羅しており、ここはアナーキスト系、ここはいわゆる左翼系、ここは……といった具合に場所に集う人々の特徴なども織り交ぜながら、そこをめぐる状況の説明もしてくれた。トリノに着いたその日、私はSに連れられて昨日占拠したばかりというスクォットコミュニティーに行った。そこは廃校になった小学校で、占拠したての住人たちは会議したり何か作ったりして作業に余念がなかった。横断幕の布にスローガンを書いていた一人がSに日本語で何か書いたらと声をかけ、Sは促されて早速「ファック・ザ・ポリス」と赤い布に白いラッカースプレーで大きく描いた。
 私たちがトリノに着いたのは3月27日だったけれど、2月にトリノの中心街アウローラ地区でスクォットコミュニティーの強制立ち退きがあった。詳しい経過はこの反ジェントリフィケーションセンターのウェブ上で抗議声明文が掲載されているので〔→〕、そこに譲る。スクォットコミュニティーASILO OCCUPATOは北部イタリア中から集められた警察によって排除され、大量の活動家が逮捕されたのだった。これは不法移民収監に反対する活動家をねらったもので、私たちがトリノに滞在している30日にこの弾圧に抗議するデモがあると聞いた。1995年から保育園廃墟を占拠していたASILO OCCUPATOの強制排除と市民活動家の逮捕に抗議するデモは、他にも「町の軍事化反対」「移民の追い出し反対」「若者への搾取反対」「あらゆる管理強化反対」などのスローガンを掲げて行われた。デモ隊の先頭は「私たちはひとりではない」と描いた横断幕を持って歩いていた。このところデモ逮捕者が多く、ひどい時は12人も逮捕されたと聞いた。
 日本から来た私たちは3家族で子どもも6人という大所帯だった。そのデモの中では子どもの参加はなく、トリノ駅近くの集結場所で、私たちはスクォットコミュニティーのリーダーをしている女性でデモ参加者の一人に注意を受けた。曰く、子どもたちを走らせてはいけない、水とレモンはちゃんと準備しているのか、どうしてもというのでなければデモ隊にいるという選択を取らなくてもいいのではないかと。結局、デモそのものは途中までメインストリームを歩き、トリノ駅近くからは歩道をつかず離れずについていくように参加した。同じように歩道を散歩するようについて歩く人の姿は多く、デモは車道いっぱいに広がるのでどこまでがデモ隊なのかわからない。子どもたちは集合地点のVALENTINO公園でデモ隊の楽器練習をしていたので、それに加われず残念そうだった。楽器は参加者が飲んだビールの空き瓶をもらって叩いていた。打楽器隊ともいうべきデモの音楽隊はサンバのような軽快なリズムでデモへの参加を誘っていた。私ももっと伴走したかったけれど、後で聞いたところによると、完全な解散は夜9時を過ぎたらしい。
 デモ主催側は、この間逮捕者に見舞われていることから、あえて5箇所の出発地点を設定し順番に合流していくという戦略をとった。それでも、デモ開始に近いタイミングで5箇所のうちの2箇所のデモ参加者が予防拘禁された。警察隊に取り囲まれた彼らは7時間もそこに留め置かれた。主催者と参加者は警察隊によって拘束された人たちをデモの最後に奪還しに行き、拘束された仲間は解放された。そんなこんなで解放まで付き合った人々の解散が、夜9時を過ぎたのだろう。Sはイタリアのデモはギリシャやフランスに比べてそんなにすごくないよと言っていたけれど、どうしてなかなかデモ参加人数もかるく300人は超えているように見えた。道路をゆったり歩くデモ隊から離れて待機する警察隊・機動隊の多さにも驚いた。パトカーやカマボコもかなりの数が集まって、路地という路地の全てに機動隊がぎっしりと詰まっていた。みんな黒いヘルメットを被りジェラルミンの盾を持った、さながらゴキブリのようだった。
 さて、トリノに到着したその日に訪ねた廃校が、まさにASILO OCCUPATOの新たなアジトだったのだ。私は雰囲気を味わっただけで何もしなかったけれど、言われなければそんなに大きな弾圧とデモの生まれる現場であるなどと誰が想像しようか。運動の現場はつねに日常生活の延長上に接続されている。

◆トリノのソーシャルセンターとスクォットコミュニティー
 ASILO OCCUPATOの新たな住処にお邪魔してから、CAVALLERIZZAというスクォットコミュニティーに寄った。Sは自転車で配達をするメッセンジャーの仕事をしている。この仕事の労働条件は聞くに耐えない悪辣なもので(もちろん自転車も自前なので)建物の一角を借りて、仲間と自転車修理をしているそうだ。修理屋ポスターにはRIDER NINJYAとあり、黒い忍者のロゴが印象的だった。そして、その後はほぼ毎回見ることになる、ガーデニングの花壇を見た初日だったことを記す。
 スクォットコミュニティー/ソーシャルセンターは、その後いくつか訪れて食事をさせてもらったりお話を聞かせていただいたりした。幼稚園舎だった建物や廃校、旧・市の庁舎で市バスやゴミ集積車の車庫・修理工場がある場所、教会などスクォットコミュニティー/ソーシャルセンターとして選ばれる場所は公共空間であることがほとんどだ。引越しを繰り返すスクォットコミュニティー/ソーシャルセンターも多く、そこを立ち退かされてまた新たに占拠していくという経過をたどることも少なくない。中には建物の老朽化やアスベストの問題で引っ越したというコミュニティーもある。居住空間としてのスクォットコミュニティーと人・情報・イベントが交差するソーシャルセンターの境界は住処にしているかどうかという程度の違いでしかなく、両方を兼ねたコミュニティーも多いようにみられた。どこでもキッチンとトイレがあり、広い敷地を持つソーシャルセンターでは食堂やライブスペースもあった。特筆することとしては、トリノのソーシャルセンターはもちろんスクォットコミュニティーもほぼ必ずガーデニングをしていることだろうか。といって、そこで作った野菜は売ったりはせずに自分たちの食事会で消費したり、近所に分けるとも聞いた。そして、びっくりしたのはいつも最後にカンパしようとするとさりげなく断られることだった。日本の運動現場では、形だけでもカンパを断ったりすることなどほぼないのではなかろうか。

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 GABRIOという閉校した中学校のソーシャルセンターは、5年前に引っ越してきたそうだ。入り口に「強制排除&弾圧反対! 全ての仲間を解放しろ」とASILO OCCUPATOへの連帯横断幕が張ってある。ここはジムも運営しており、ジムの名前は1944年にナチと闘って警察に追われ、投身自殺をしたダンテ・ディ・ナンニという18歳の青年にちなんでつけられていた。ジムでベルリンとトリノのボクシング交流試合もあったと聞いた。ボルダリングを建物の外に建てる計画もあると説明してくれたCさん。GABRIOでは法律相談や衣料放出、医療従事者が無料の診療も毎週していると聞く。子どものためのスペースやTシャツ・ステンシルを作る工房、コンサートなどのイベントを開催するイベントホール2箇所と地下にはバーもあった。庭園のような畑も広くガーデニングの研究もしている。畑にはオリーブやタイムなどいろんなハーブが植わっていた。黒板や模造紙に細かく野菜の名前が書かれているので聞いたところ、相性のよくない野菜の植え合わせについて研究しているとのこと。堆肥だけ・肥料だけで作る有機農法もあるそうだ。それぞれ部門別にワーキンググループを構成していて、メンバーは組織化されている。医者や弁護士、アーティストといった人たちが参加して、手弁当で活動を成り立たせていることも印象的だった。他にもアナーキストが住んでいるスクォットコミュニティーはシネマ室まで持っていた。デモ参加者を宿泊させたりもするし、ハッカーミーティングもあると聞いてかなりびっくりした。
 トリノで見たソーシャルセンターやスクォットコミュニティーは、年月を経て今の状態へと形作られた。成熟しているように見えるけれど、きっと平坦な道ではなかっただろうし実際は様々な問題を抱えているのかもしれない。GABRIOを案内してくれたCさんに思わず「もめたときはどうやって解決するの」と聞いてしまい、「どういう意味?」と聞き返された。「例えば方針が違うときなどは?」私の質問に少し戸惑いながら「あまりにもかけ離れているときは別々になっていかざるを得ない。でもその差異が小さいものならばどちらかが妥協するなりお互いに修復可能な範囲で落としどころを探し出すほかないのではないか」と、とてもシンプルに答えてくれた。一瞬、聞いた自分を恥じた。

◆NO TAVはアルプスの麓に広がる
 トリノで出会ったNO TAV(New Turin-Lion high-speed/high-capacity railway project リニア新幹線建設反対運動)〔→〕を紹介したい。トリノ中心街から特急で1時間半ほど、フランスに抜ける北アルプスの山の麓にスーザ渓谷がある。そこにイタリアの人民戦線ともいうべき新幹線建設反対運動の拠点がある。事務所は木造建ての一軒家で周りに民家はない。子どもたちは外で木のブランコに乗ったり鬼ごっこをしたりして駆け回っていた。大人はお昼に美味しいワインをふるまわれたので、市場で買った美味しいチーズとアルプスの景色を肴に楽しんでいた。私たちは連帯の表明として、事務所の台所を使って味噌汁を調理し団結小屋に持って行った。
 私たちがお邪魔した水曜日は、新幹線の工事現場を見渡せる林の中に建てた団結小屋での晩餐会があった。リニア新幹線建設は一度、地元住民の反対で白紙になったはずなのに、この事務所からさらに車で1時間以上かけて渓谷の奥まで入ったところでトンネル工事を始めたと聞く。民家が近い事務所からさらに山へ、団結小屋までの渓谷の細い道なき道を迷うことなくたどり着くおじさんたちのハンドルさばきにまず惚れる。団結小屋を指し示す木の看板は“マッダレーナ解放区”と書かれ、小屋は傾斜のある場所に建てられている。新幹線の工事はまだ地質調査しか着手できていない。工事も今は止められているけれど、近々再開の予定があると聞いた。工事現場と呼ぶにはかなり軍事化された場所で、監視カメラと盗聴器がそこかしこにあるとおしえられる。水曜日は団結小屋で木曜日は事務所で晩餐会、工事の動きがあればみんなでそれを阻止・妨害するという営みをひたすらやってきた。それがNO TAVの運動だ。
 4年前から小屋で専従をしているというAさんはもともとトリノ出身で30年前から地元に住んでいる。この運動の強みはメンバーの多くが地元住民であることだろう。市町村、教会、コミュニスト、アナーキスト、とNO TAVには全ての立場の人たちが関わっている。木造の事務所の玄関ドアとその横手には様々なステッカーが所狭しと貼られていた。世界中のあらゆる運動体、活動家が訪れて自分たちのステッカーを貼って帰るそうだ。よくグローバルとローカルと並べて言われるけれど、両方をそのまま実践している最前線かもしれない。
 「私たちは反対のための反対を唱えているわけではありません」と、Aさんは話し始めた。個人的には「反対のための反対」という言葉自体がすでに市民エゴ的な発想に基づいていると思っているけれど、まずAさんの話を聴く。このリニア新幹線計画は1990年に計画されて、少なくとも2億円以上がすでに使われている。今、見ているように工事現場、地質調査のトンネルがあるけれど7kmほどで工事が止まっている。トンネルは70kmありイタリア国土が15kmフランス国土は56kmであるにも関わらず、その費用の60%をイタリアが負担している。フランスの費用負担は30%で、この新幹線経路が完成したらEU基金から払われる。かつて、イタリア政党の五つ星運動はこの計画に反対していたので、NO TAVは五つ星運動を応援することにした。その方針を巡ってNO TAVは決裂し、多くのアナーキストは運動から離れたらしい。ところが、五つ星運動が勝ってもやはりリニア新幹線建設計画はそのままだった。
 私たちにはフランスへ行く鉄道も高速道路もすでにあるのに、この上、リニア新幹線は必要ないだろう。それから環境破壊がある。ウランやアスベストなどの有害物質が発生する。この頃、気候もおかしい。雨が降らないのでこれまで採れていたキノコが採れなくなったと語る。反対理由の2点目は、10~20億円とも50~60億円とも言われる巨額の工事費用がかかること。3点目は最初に挙げた理由で、そもそも必要がない。ミラノまでの高速道路もフランスまで行く鉄道も活用されていない。鉄道に至っては20%しか使われていない。イタリア政府の試算でも同じ問題点を挙げているのに、始めてしまったからこのまましましょうというのはおかしい。私たちはただリニア新幹線建設反対と唱えているわけではなくこれらの理由で反対している。マスコミは正しい報道をしないので、この3つの問題点と正しい情報を伝えることが大事なのだと締めくくられた。
 2005年にはトリノで2~3万人のNO TAVデモがあった。ローマでは8~10万人レベルのデモだった。2011年のデモには5000人の軍隊、公安、警察によって6000発の催涙ガスが午前7時~午後1時まで撃ち込まれつづけた。Aさんは2015年は逮捕されなかったけれど、これまで8回以上告訴され6~7回は裁判にもなった。4ヶ月間の自宅監察処分を受けたこともある。Aさんは67歳で、ずっとこの活動をつづけている。確かに「しんどい」。息子が現場に「行こうか?」と言ってくれるけれど、今はいいと返事している。自分たちが死んだら次の世代に引き継いで欲しいと淡々と話されていた。もう一人のメンバーであるBさんはここ2~3年ほどの間に運動に関わるようになったと言う。それまで、Aさんとも顔見知りだったけれど、お互いにそんなに話さなかった。それなのに今や兄弟だ! もしこの工事を再開したらすぐに妨害に行くし、そこで死人を出したら他のメンバーが黙っていない。自分たちの後ろにいる人民も決して許さないだろう。地質調査の工事が再開するときは自分の屍の上を通るがいい……。今日はたまたまおじさんメンバーが多かったけれど、おばさんも多いし実家が地元で時々手伝いに来ているという女性とも事務所で知り合った。晩餐会ではチーズ、ワイン、野菜入りのキッシュ、クルミやナッツをいただき、差し入れた味噌汁も好評だったことに満足して帰って来た。

◆センター占拠が始まった
 日本に帰って来たら釜ヶ崎ではセンター占拠が始まっていた〔→〕。あいりん総合センターの建て替え問題については別の機会に報告を譲る。3月31日に西成労働福祉センターとあいりん公共職業安定所(以下、センター)が閉鎖されようとしたところを、労働者がシャッターの下に身を投げ出して占拠を勝ち取った。この間、日本だけでなく世界の様々な都市や現場から人が応援に駆けつけてくれた。私たちはそこを住処とする人、炊き出しに並ぶ人、掃除する人、食事を一緒にこしらえる人とともに、場所を創っていった。映画上映会やライブ、報告会や共同炊事など様々な企画を通して、ここは私たちの場所であることを表現したのだ。「私たち」の中には労働者や野宿者もいれば、生活保護受給者もいたし、自営業者、学生、活動家、支援者、フリーターやボランティアで足を運ぶ人もいた。性別も年齢も所属も文脈も雑多な集団だった。
 ともに集って話したり食べたりしてきたが4月24日、何の予告も説明もなく国・大阪府の職員と警察隊・機動隊が300人以上投入され、私たちは無理やりセンターを排除されたのだった〔→〕。センターに留まろうとしても身体ごと運ばれ、1人の仲間に5~6人の警察や職員が張り付いているので身動きが取れない。事態の深刻さに慌てて仲間に電話しても、センター前の道路が封鎖されて誰も近づけない。このことを予測してシャッターの下に駐車していた釜ヶ崎地域合同労働組合のバスは、ブレーキを解除されてレッカーで引っ張られて排除された。閉鎖したシャッターは開けられないように溶接された。
 警察を中心とした権力は世界の片隅を徹底的に掃除するために予告もなく現れ、私たちは何の抵抗もできないように囲まれた状態で排除された。その光景は野宿している人たちには、ここで寝るとこうなるぞという見せしめであり、労働者にはここに集っていれば反社会勢力の仲間とみなすという脅しであり、支援者に対しては、「公共」の場というものは「公権力」の司る場所であってお前たちが陣取って遊ぶような所ではないと突きつけるものだった。2006~2007年に大阪市が行政代執行という手続きをとって都市公園に住む野宿者を排除したのに対し、今回のセンターからの排除は何の法的手続きもとられていなかったと言える。ここに置いてある荷物を撤去するようにという警告放送がセンターで2時間おきに流れるようになったこと、4月15日に大阪府の職員と公安警察がやってきて、同じ内容の警告書をセンターの柱に貼ったことを指して「予告していた」と言うのかもしれない。しかし実際のところ、そこを寝床にしていた人たちにとっては「予告」と呼べない代物だった。釜ヶ崎以外の路上では寝ることすら叶わない野宿者にとっては、貼り紙も放送もよく目にする日常の光景にすぎないのだから。

◆団結テントは、今後どうなっていきたいか
 24日間の占拠だった。1ヶ月にも満たなかった。背景も状況も違うトリノのスクォットコミュニティーとは比べようがないので、もしかしたら24日間でも十分だったと言えるのかもしれない。けれど私には納得できなかった。居住権や人の命よりも資本の論理や「美観」・「安全」といったものが公然と優先される現実を理解できない。センターからの排除も公園テント小屋の行政代執行も、私たちへの弾圧そのものであることは明らかだった。それでも私たちはセンターから排除された翌日には閉鎖されたシャッターのすぐ横で団結テントを再建して、今も野宿者・労働者の寄り合いや昼回りをつづけている。裁判も2つ抱えており、センター会議で情報の共有をして毎月労働局への抗議行動もしている。また、秋にはお祭りをしたいと話している。
 私たちはどこに向かって何を目指していけばいいのだろうか。運動は時間がかかる。たくさんの人と手を必要としているので、そこにいる・来る人が誰しも尊重されるような場のつくり方は常に追求されるべき課題である。それは集まりの持ち方や話し合いの仕方であったり、言葉の選び方やケアすることであったりする。必要な事柄を積極的に全体化することや匿名性をできるだけ保障すること、安全に関わる情報をある程度、管理するということも開かれた場所を開かれた状態で維持するためには必要だと言える。弾圧対策とは、尽きるところ日々の中でできることをしていくことなのだろう。
 センターの建物の耐震性を理由に施設をすべて解体して、そこで寝ている人たちも一掃しようとする国・大阪府は警察と常に連携をとっている。私たちは今、カオスの寄り合い集団でも、ある場面では「組織化」「コミュニティー」というものを目指さざるを得ないかもしれない。そういった場面に出合ったとき、身につけていくべきことは思想的・技術的なものよりも意外と簡単な作法や作風、姿勢だったりするのかもしれない。野宿者の側に立ちつづけながら運動をつくっていくこと、彼/彼女のそばにいることからしか見出せない問いもあると信じること。団結テントは今後もセンター開放と占拠を追求していきたい。
 5月30日には西成労働福祉センター仮庁舎の駐車場の監視カメラが私たちの団結テントに向けられるようになった。センター仮庁舎駐車場に立てていた幟と簡易トイレが8月7日大阪府と警察によって撤去された。公権力はじわじわと私たちの場所を縮めて切り崩していこうとしている。
 トリノで見たものはどれも洗練され成熟しているように見えた。食べ物もワインも美味しかった。しかし、彼らのスクォットコミュニティーも過酷な状況下で闘っている。住処を追われ、警察に蹴散らされている。横断幕にあった「私たちはひとりではない」という言葉を思い出す。自分たちの後ろには人民がいると言ったNO TAVのBさんの言葉が蘇る。私たちはこれからもここにいつづける。そのことが闘いであり生きていくための表現だから。