2019/05/29 村上 潔
5月31日刊行の『支援』Vol.9(生活書院)に、佐藤由美子×村上潔(司会:堅田香緒里)「[トークセッション]オリンピックとジェントリフィケーション――ジェンダー・文化・アクティヴィズムの観点から」が掲載されています。これは、昨年9月12日に新宿で行なった同名のトークセッション(http://www.arsvi.com/2010/20180912mk.htm)の記録になります。
この内容について、少し補足的に説明をしておきたいと思います。
まず、「オリンピック」をタイトルに掲げていますが、メガイベントとしてのオリンピックそれ自体に関する話は、あまりしていません。そういう意味では、ちょっと拍子抜けされるかたもいらっしゃるかもしれません。
ではオリンピックと無縁の話ばかりなのかといえば、そうではありません。直接的にオリンピックのことを論じてはいなくとも、現在のオリンピックに象徴される問題の様々な側面に、複数の論点から焦点を当てています。
いうまでもなくオリンピック(や万博のようなメガイベント)とジェントリフィケーションとは直接関係があり、そのこと自体は当然重要です。その(東京・新宿における)実態と、過去の(ロンドンの)事例には言及しています。ただ、私たちは、どちらかというと、その裏にある「見えない」要素をより重要視しています。それはなにか。
土地の歴史。建物の歴史。民族の歴史。共同体の歴史。都市の空間性。身体性――特に女性の身体性。再生産の営み。子育て。人々の助け合い。自然――空気・風・地面・植物。場所の質感。記憶。人の感受性。詩(の朗読)・踊りといった表現。
そういった要素が、①空間(の価値)を塗り替え人の生業・生活と文化を改変させていくジェントリフィケーションの動態と、②人間の身体(の価値)を規定し商品化し商業利用していくオリンピックという産業構造――いずれもグローバル資本と国家がその先導役/推進力となっている――に対して、いかように反応・反発しているのか。
そこをしっかり考えたかったのです。特に、「身体性」を基軸に据えた「フェミニスト・パースペクティヴ[Feminist Perspective]」からジェントリフィケーション/反ジェントリフィケーション運動/オリンピックを捉える、という方向性は、(司会の堅田さんも含め)このトークのなかに一貫してあったと思います。
そしてその先には、「新自由主義に抗する共同性のありかた」を見出そうとする到達目標がありました。もちろんそれは私たちの手に余る大きな課題です。それは最初からわかっていましたし、事実、参加者のみなさんが納得できるような「結論」を出せたとも思っていません。ただそれでも、その「道筋」は示せたと思っていますし、その道筋を追う/つく(創)ることの「おもしろさ」は感じ取っていただけたのではないかと思っています。
佐藤さんはこのトークセッションのあと、2018年12月に、ご自身の運営する〈トランジスタ・プレス〉から、詩集(清岡智比古・ミシマショウジ・佐藤由美子・菅啓次郎)『敷石のパリ Traversée de Paris――カラフルなざわめきの足音へ』を発行されました。パリという都市の息遣いを肌から感じさせてくれる、小さな手触りのよい美しい詩集です。
私=村上のほうは、ジン[Zine]のワークショップをいくつか手がけ、ジンに関する文章やアナーカ・フェミニズム[Anarcha-Feminism]に関する文章を書き、女性の再生産に関する講義をしたりしてきました。お互い、それぞれの「本業(?)」に戻りながらも、このトークで共有した問題意識をつねに・何らかのかたちで追いかけているのかな、と思います。
以上のことをふまえたうえでこの記録を読んでいただけると、より楽しんで/深く理解してもらえるのではないかと思います。どうかご一読のほど、よろしくお願いいたします。