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[詩]女と水と導火線――『月夜釜合戦』に寄せて

2018/01/12 村上 潔

広がる葦原
淀んだ水

ぬかるむ土
くすんだ空

女が立ち
しゃがみ込む

海と陸の境
水が浸食する世界

無名の命の生まれるところ
育む者はない
その女のほかに

手なずけられない女
庇護者をもたない子

それらは街の中心から弾き出される
誰からも厄介な存在として

女はしかし
見えない水脈を辿って反撃する
誰も気づかぬうちに
じわじわと
じっとりと
ずぶりと

男たちは奪い合う
土地を
鉄を
金を

女は育み再生する
湿気たマッチを
見も知らぬ子を
無数の眠る魂を

狼煙を上げるのではない

葦草と貯木につけられた湿った炎は
地下の導火線を伝い
凪いだ風に乗り
渇いた街を低温火傷させる

それが女の反攻
水の世界の奪還

いま時を越え
忘れられた命の生き直しが始まる

――
cf. 映画『月夜釜合戦』

ジェントリフィケーションとメランコリー――都市徘徊者Qの今年の五冊

2017/12/31 Q

【1】Jeremiah Moss, Vanishing New York: How a Great City Lost Its Soul, Dey Street Bookes, 2017

【2】Enzo Traverso, Left-Wing Melancholia: Marxism, History, and Memory, Columbia University Press (2nd Revised Edition), 2017

【3】Alex S. Vitel, The End of Policing, Verso, 2017

【4】William Clare Roberts, Marx’s Inferno: The Political Theory of Capital, Princeton University Press, 2017

【5】China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution, Verso, 2017[松本剛史訳『オクトーバー――物語ロシア革命』筑摩書房]

 ここにあげたのは、ベストというわけではなく、というのは、それを選べるほど、同時代の本をたくさん読んでないからであり、また、たまたま2017年公刊の本があがったが、決して2017年公刊に限定しようとしたわけでもない。
 また、順番もさして意味がない。【1】に、ジェレミアー・モスの本(『消えゆくニューヨーク――いかに偉大な都市はその魂を失ったのか』)をあげたのは、やはり、このブログの性質をかんがえて、さすがに直接にジェントリフィケーションがらみの本がないのはマズイか、というところである。とはいえ、このジェントリフィケーションによって劇的に変貌するニューヨークをつぶさに報告して名高いブログをもとにして再構成された本書が、すばらしい一冊であることはまちがいない。
 つい最近あかされたのだが、著者のジェレミアー・モスは実は本名ではない。本当の名はGriffin Hansburyで、ソーシャルワーカーで精神分析家であるらしい。1993年22歳のとき、NYにはじめてきた。それは、ニューヨークの「終わりのはじまりの時期」であるという。
 この本は、27章からなっていて、具体的な場所――たとえばロワーイーストサイド、バワリー、リトルイタリー、イーストヴィレッジ、グリニッジヴィレッジ、ブルックリン、コニーアイランド、クイーンズ、サウスブロンクスなどなど――の報告にあてられている章を中心に、ときにピックアップされた論点をめぐって考察をくわえた章が編み込まれる、といった具合に構成されている。その論点は、ハイバージェントリフィケーション、ネオリベラル的転回、ツーリズム、エンロン社会などである。
 序文は次のようにはじまる。じぶんの人生の最大の悲劇のひとつは、ニューヨーク市にやってきたのが、その終わりのはじまりであったという不運である、1993年は遅すぎた。70年代80年代のパンクの時代にも遅れ、50年代60年代のビートニクの時代にも遅れ、戦時の40年代にも遅れ、ラディカルな左派の30年代にも遅れ、20年代10年代のボヘミアンの時代にも遅れ、さらにはウォルト・ホイットマンたちのプロト・カウンターカルチャーの時代にも遅れた。そしてこういうのである。

「この遅れてしまった経験は、怒り、悲しみ、苦い失望の入り混じった複雑な感情とともに、わたしがニューヨークとその消失について書くすべてを、確実に駆動している。このトピックについて、わたしは冷静ではいられない。わたしは偏向しているし、それにノスタルジアに傾きがちである。読者はあらかじめこのことを知っておいてほしい。ニューヨークタイムズはわたしを「黙示録的事大化の傾向のある」「ひねくれ者」、デイリーニュースは「汚物のフェティシスト」と呼ばわった。だが、わたしはニューヨークに、映画『マンハッタン』のオープニングでのロマンティクなウディ・アレン演じるアイザック・デイヴィスのようにやってきた。すなわち、この町を「桁外れに」偶像化し、ロマン化していたのだ。かれとおなじように、わたしもまた、この本に適切なトーンを求めて格闘した。深みがあるけれども、説教くさくもなく、また怒りも抑えて、と。しかし、ニューヨークの死について、この地球上でもっとも偉大な都市の死について、いったいこぶしをふりまわさずに書けるだろうか? ニューヨークは、説教にも怒りにも、ロマンスにもノスタルジアにも値する。ニューヨークは、情熱的で怒りに充ちた擁護に値するのだ」。

 このようにいっているが、もちろん、本書は怒りと説教にあふれているわけではない。しかし、本書の読むべきところのひとつは、こうしたプロは隠しがちである感情の次元を率直に表明して、それにあれこれの考察をくわえるところにある。それをみると、ますますよくわかるのだが、そもそも、トポフィリアの欠如ないし希薄な都市論ほど、おもしろみのないものもない。著者は、みかけの冷静さを与えることはしないし、ほとんど無際限につづくニューヨークを構成したもの、商店、バー、ライブハウス、建築物、出版物などなどなどなど、消失の事例にはトラウマ的ですらある深い悲しみと嘆きの次元がともなっているが、その感情を対象化し、率直に矛盾を表明したり、さらに正当な弁明を与えたりする、その内省からあらわれるさまざまな論点や考察が、評者にはきわめて共感を誘うのみならず、有益だった。
 また、この本は、ジェントリフィケーション論や都市論を、その近年の動向や論争をふくめて明快に紹介し、消化していて、ジェントリフィケーション論入門としても最適である。かれの造語である鍵概念「ハイバージェントリフィケーション」概念も、この理論的検討のひとつの果実である。この点もふくめ、いずれこのブログで紹介したい。
 【2】のエンツォ・トラヴェルソの本。装幀について、仏語版は地味だが、英語版はレーニンのアヴァンギャルド風のイメージがノスタルジックな紙質の風化のなかにおかれるといった、よくできたものであり、手にするだけでなんとなく充実感のあるものである。また、20世紀レフト文化に深く内在するメランコリーの意味を考察した内容にしても、啓発的であるだけでなく、深く感動的である。エンツォ・トラヴェルソは、まちがいなく現代でもっとも信頼できる思想史家だ。
 【3】『ポリシングの終焉』。この本は、BlackLivesMatterをその一角とする、近年の反レイシズムの流れのなかで本格化している、ポリシング、あるいは警察の廃止をめぐる議論の動向がわかるものである。ジェントリフィケーションがレイシズムや階級差別と骨がらみであることはよく論じられる(【1】でもさまざまに事例が出てくる)が、その裏面には、深刻化する治安や監視強化とあいまった警察の暴力がある。警察制度はなにからはじまったか? それは占領下の植民地住民の管理の装置からはじまった。もともと、警察それ自体が、反乱管理、抵抗の取り締まりを主体とするものであり、そこには必然的に、レイシズムと階級問題がある。警察を改良することは可能か? 真に市民のものとすることは可能か? 不可能かもしれない。といった問いのなかから、警察のない社会への構想がはじまっている。それをいま、わたしたちは想像もできない。だが、こうした切迫した抵抗があげる、最初はだれもとりあわないような小さな夢想から、時代は変化していくこともある。
 【4】『資本論』論。資本論第一巻は、ダンテの地獄篇を構成の下敷きにしているという、仰天の構想をもって論じられた本。最初は半信半疑で読んでいたが、意外と説得力があるようにおもう。マルクスを、マキアヴェッリ以来の共和主義的啓蒙の線上の政治思想家として捉えるといった試みでもある。Jacobin誌のデヴィッド・ハーヴェイの書評をきっかけに少し論争も起きた。
 【5】は、SF作家ミエヴィルのロシア革命論。このところあらわれた類書では、たぶんこれが一番だとおもう。
 今年の日本は、右傾化に歯止めがかかるどころか、代表制下の選挙とは人民を奴隷にする制度であるという標語を地で行くような選挙の狂騒、そしてついに「神がかりリベラル」のようなものもあらわれた。モスは、【1】のなかで、旅人と観光客を比較して、観光客は「安全安心見慣れたもの」を求め、都市はその潜在的都市嫌悪にむかってみずからを改造させるとして、旅人をそれに対比させている。旅人は、都市の新奇さと遭遇と危険のなかで「みずからの地平を拡大しようとする」人間のことであり、みずからの人生の転覆にもひらかれた人間のことである。ポール・ボウルズにならえば、観光客は旅に出てすぐに自宅のことを考える人間であるが、旅人とは「帰国しないかもしれない人間」のことである。もし、戦後精神にみるべき核心があるとしたら、それはこの「旅人」の感性、「地平を拡大」したいという精神をたしかに、いくぶんかはその糧にしていたことにあるだろう。それに対して、あられもなく「王」とナショナリズムにたよりながら「地平の死守」にはげむ「リベラル」の姿、そしてジェントリフィケーションとからみあった現代都市の「観光化」が、いまの日本の精神的状況としてどこか相関しているとみえても、これには無理がないのではないか。これはおそらく、現代、とりわけ3.11以降つづく「エリート・パニック」の一徴候のようなものでもあろうが、わたしたちが、おそらく、はてしのない精神的な転落過程を生きていることは、もはやあきらかである。かつて、金子光晴は、高度成長の「繁栄」のなかで、どうか「未来についての甘い夢を引きちぎって」ほしい、と、「日本人」に懇願した。わたしたちの社会は、わたしたちが想像するよりも破滅的なのだ、と。オリンピックもそうだが、なにかにつけて「フェス」を求め、小さな高揚を求めるこの社会のすがたにあるのは、ある感情の二面性であるようにおもわれる。つまり、悲哀と上機嫌である。古い比喩だが、モスの表明する悲哀はB面であり、A面はジェントリフィケーションの上機嫌であるということだ。現代は、この高揚と悲哀とが、かつての歌謡曲のように、混成し合って微妙な色合いを表現することなく、間隔の狭い深淵によって背中合わせにある時代である。
 今年はロシア2月・10月革命から100年だった。トラヴェルソの本からの引用で終わりたい。

「そして、[冷戦崩壊から]10年ののち、あたらしい運動が、「もうひとつの世界は可能だ」と宣言ながらあらわれたとき、それらの運動は、みずからの知的・政治的アイデンティティを再定義しなければならなかった。より正確にいえば、可視的で思考可能あるいは想像可能な未来なしに、世界においてじぶん自身――その理論と実践をともに――を再創造しなければならなかったのである。それらは、それ以外の「孤児」の諸世代が、それ以前にできたようには、「伝統の創造」をおこなうことはできなかった。あらゆる敗北にもかかわらず、解読することは可能でありつづけた炎と血の時代から、予期できる結果のみえないグローバルな脅威をはらんだあたらしい時代への移行は、メランコリックな色合いを身にまとっている。しかしながら、このメランコリアは、閉ざされた苦痛と想起の宇宙への撤退を意味してはいない。むしろそれは、歴史的移行をくるみ込む、感情と感覚のひとつの星座[コンステレーション]であり、あたらしい理念とプロジェクトの探究と、喪われた革命的経験の世界への悲哀や喪とを共存させうる、ただひとつの方法なのである。退行的なものでも無力なものでもないとすれば、この左翼メランコリアは、過去の重みを回避すべきではない。それは、現在の諸闘争にオープンでありつつも、みずからの過去の失敗についての自己批判を回避しない、ひとつの憂鬱な批判なのである。それは、ネオリベラリズムのえがきだす世界秩序を甘受することはしないが、歴史の敗北者に共感をもって同一化することなしに、その知的な武器庫を一新することをなしえぬ、ひとりの左翼による憂鬱な批判なのだ。20世紀の終わりには、そのおびただしい[敗北者の]群れに、敗北した左翼のある世代総体――あるいはその残党――が、いやおうなく加えられた。しかしながら、かつての、天をも揺るがすこと[勇敢に闘うこと(storming heaven)]こそが、喪った同志たちを悼むための最良の方法にみえた時代には斥けられてきたこのメランコリアを、いま、はっきりとみえるようにすることによって、それを実りあるものにしなければならない」。

Wem gehört die Stadt? 都市は誰のものなのか(1)――koZe(コッツェ)を題材に

2017/11/27 小美濃 彰

 ドイツ北部・ハンブルクの中央駅を出て5分も歩かないうちにミュンツフィアテル(Münzviertel)という住宅街にたどり着く。この地区の近隣には、中央駅とハンブルク市庁舎を結ぶショッピングストリートのメンケベルク通り(Mönckebergstraße)、外国人の経営する商店や料理店が多く集まり、住宅の再開発もすすむザンクトゲオルグ(St.Georg)などが位置している。さらに、この地区から南にくだっていくと、エルベ川北岸の港湾地区の再開発によって誕生したハーフェンシティ(Hafen City)にたどり着く。ハーフェン(Hafen)というのは「港」を意味するドイツ語で、この地区はもともとレンガ造りの港湾倉庫街であったところを住宅・企業オフィス・レジャー施設などへと転換させた場所である。
 ここで紹介するkoZe(Das kollektive Zentrum)――「コッツェ」。英語にするならthe collective centre――は、上記のミュンツフィアテル内にあった廃校(旧ろう学校)をスクウォットして生み出された自主管理スペースである。この旧ろう学校のスクウォッティングが宣言されたのは2014年7月のことだが、一年強の期間を経た2015年9月から部分的な排除を受けはじめるようになり、2016年10月には完全に立ち退いてしまったようである。
 このkoZeは、拡張へと向かおうとするハンブルクの都市政策が内包する矛盾に対して闘われたひとつの事例であり、いまハンブルクで何が起きているかということの一端として目を通してもらえればと思う。小さな特別市――特別市は単独でひとつの連邦州に相当する。ベルリンも同様――であるハンブルクでは、都市規模を拡大しようにも面的な拡張を望み難く、既存の土地利用や空間編成をいかに転換していくかということが政策の焦点となっている。その中で大規模に再開発されているのが港湾地帯のハーフェンシティであり、このハーフェンシティとの差異化という意図に従属するかたちで、ハンブルクの住宅不足を少しでも緩和すべく白羽の矢が立った地区のひとつがミュンツフィアテルなのである。

1. ミュンツフィアテル

都市は誰のものなのか(1)
※〔図1〕Bezirksamt Hamburg-Mitte, Aktive Stadtteilentwicklung 2005-2008(発行年不明)に掲載されていた地図から作成。

 ドイツ鉄道のハンブルク中央駅と長距離バスターミナルなど主要交通機関に隣接し,市中心部だけでなくハーフェンシティという再開発地区にも隣接しているミュンツフィアテル。隣接しているといっても実はこの地区、北側の中央駅から南/南東に走る線路、南部を東西に横切るアムジンク通り(Amsinckstraße)など複数の線に囲まれて分断された、小さな地帯である〔図1〕。
 中央駅や、北東に位置するザンクトゲオルグなどへのアクセスはアルトマン橋(Altmanbrücke)や鉄道高架下を抜けるレプゾルト通り(Repsoldstraße)に絞られているし、南側ではアムジンク通り(Amsinckstraße)のほかにノートカナル通り(Nordkanalstraße)やノートカナル橋(Nordkanalbrücke)、シュパルディング通り(Spaldingstraße)が横切っている。これらを渡って地区の南側へ向かうには、車の往来を縫って渡るのでなければ東か西に大きく迂回する必要がある。パッと地図を見たところでは分かりづらいのだが、こうした地理的条件によってハンブルク市中心部の発展から取り残されつつあるということは、かねてより指摘されてきたことであった〔注1〕。
 ミュンツフィアテルを行政区域に含んでいるハンブルク中央区(Bezirksamt Hamburg-Mitte)が発行した資料“Aktive Stadtteilentwicklung 2005-2008”を見てみよう。この中では上記のほかに、地区内に緑地が少なすぎるということ。あるにしても私有地や廃校など利用の制限されたものしかないことや、地区に隣接している保健所に通っている薬物中毒者の出入りをフェンスで防いでおく必要があるといったことなどが取りあげられている。
 この資料は、こうした諸課題の克服をめざした都市開発の構想であり、そのタイトルを直訳するならば「積極的な都市開発 2005-2008年」といったところである。ここでの「積極的」という言葉が向けられているのはおそらく、再開発の対象となるミュンツフィアテルの住民参加のことであろう。実際にハンブルク中央区とミュンツフィアテルの住民団体との間でも、交渉が重ねられてきた。「芸術街」(Kunstmeile)と呼ばれる地区にも隣接し、すでに触れたような地理的環境などから比較的家賃が低くなっているミュンツフィアテルには芸術家や学生の住民が多く、交渉の先頭にたっていたのはKunst Labor Naher Gegenden e.V.(以下、KuNaGe)という芸術家グループであった。
 このKuNaGeと中央区行政との交渉を中心に進められた「積極的な都市開発」は、①「芸術と社会」(Kunst und Soziales)、②「住宅と住民」(Wohnen und Bewohner)、③「(半)公共空間」((Halb-) öffentlicher Raum)という3つの柱を掲げていた。①では、住民が芸術活動を通じた地区の活性にたずさわっていくこと。②では、ミュンツフィアテル固有の居住機能をどのように構築していくか。③では、狭いミュンツフィアテルにおいて、庭園などの私有地も地区の景観を飾るような「(半)公共空間」として活用していく、ということがそれぞれ主題化されていた。
 アクティビストらがスクウォットしたろう学校は、②「住宅と住民」のなかで新たな住宅建設プロジェクトの対象として焦点化されていたものである。このろう学校の敷地はミュンツフィアテルを含む三角地帯のほぼ中央に広がっているため、これをどのように活用するかという問題は開発に対する住民の要求の中心にもなっていたのである。この場所を、住民に役立つような形でどう領有していくかということが問題だったのだが、行政との交渉が断絶し、ここがスクウォッティングによる闘争の場へと変わったのは、所有者であるハンブルク市がこの場所を住民から一方的に奪い取ったことに起因している。

2. 空間の奪い合い――koZe

 すでに触れたように、ろう学校のスクウォッティングが宣言されたのは2014年7月だが、この半年以上前の2013年10月から、KuNaGeがろう学校跡地の無料・一時利用を所有者であるハンブルク市に対して要求していた。ミュンツフィアテルではフードコープのタンテ・ミュンツェ(Tante Münze)や、自転車利用者からなる互助グループのラートキュッヒェ・ミュンツェ(Radküche Münze)といった団体が活動しており、それぞれが活動スペースを要求していたのである。フードコープにせよ自転車修理の互助グループにせよ、参加者が集まりやすく、そしてなによりも家賃や光熱費による費用負担を低く抑えることのできる場所が必要になるからだ。
 これに対し市当局は要求を拒み続けたが、その後も一時利用の請求をおこなってきたKuNaGeに、2014年6月になって諸経費込みで6.95€/㎡という賃貸を提案している。しかしKuNaGeが要求していたのは上記のような理由にもとづく無料利用であり、賃貸の提案を却下している〔注2〕。翌月に実行されるスクウォッティングには、簡単に言ってしまえばこのような背景があった。しかし、この行動はただ賃貸料の請求に反発したのではない。一度は警察により排除されたが、このスクウォッティングを経て無料での一時利用を獲得したkoZeは、2014年12月10日付の“Kollektives Zentrum – Here we are”という声明で以下のように述べている。

 シュルツ通りとノルダー通りに面するおよそ8000㎡もの大きな敷地をめぐる、ミュンツフィアテルの人々の何年にもわたる取り組みを経て明らかになったのは、地区の開発への住民参加に行政が全く関心を示していないということだった。かなり長いあいだ空き家状態であった旧ろう学校の一時利用をもとめる懸命な請願は、この敷地を売却しようとするLIG〔引用者注:市有不動産を管理する市当局〕とこれに関心を示すHBK〔引用者注:市がろう学校跡地を売却した先の民間企業〕の間でもて遊ばれ続けてきた。今こそ官僚的なくだらない会話と偽りの住民参加から抜け出して行動する時であり、今年の7月に起きた約200人によるスクウォッティングとkoZeの成立もそういった行政の振舞いの帰結である。〔…〕2011年にはこの土地の開発計画案の学生コンペが開催され、ハーフェンシティ大学の学生や教員、そしてミュンツフィアテルの住人らが数か月に渡って取り組みを行ってきた。〔…〕財務局〔引用者注:LIGはここに属する一部署〕がここで表彰や選考過程にも参加していたにもかかわらず、このコンペの結果は現行の新規建設計画に全く取り入れられていない。2013年の末になると、ミュンツフィアテルでは旧ろう学校の敷地がとある投資企業に引き渡されたことが明らかになった。その企業〔引用者注:HBK〕は2013年12月に建設計画案を発表したが、敷地引き渡しの可否がかかったこの計画内容で、2011年の学生コンペの結果はまったく考慮されていなかったのである。
(※koZeウェブサイト内のリンク切れで現在閲覧不可。最終閲覧日:2016年1月5日)

 これを見る限りでは、ミュンツフィアテルの再開発が行政と住民との間で当初から決定的に対立したものではなかったということが明らかである。ハーフェンシティ大学というのは、都市工学や建築学を主要学科として2006年に新設された大学で、これと連携してミュンツフィアテルでは数カ月にわたる開発案のコンペをおこなっていたようでもある。ところが2013年12月、HBK――ハンブルクに拠点を置くデベロッパーであるHanseatische Bau Konzept GmbH & Co. KG――の発表した計画が2011年のコンペを反故にしたものであるにもかかわらず、ろう学校の敷地売却が決定されたというのである。
 HBKの提示した計画は、家賃設定が自由である学生向け住宅を50%、世帯向けの社会住宅を50%(うち20%は高齢者介護付住宅)という住宅建設案であった。しかし、2011年のコンペで1位に選出された計画案には、コーポラティブハウスや社会住宅、アーティスト向きのアトリエ兼住宅、野宿者のための臨時宿泊所、職業訓練生向けの寮、フードコープ、保育所、音楽室といった構想が盛り込まれていたのに、これがHBKの計画に全く反映されていないということをKuNaGeが指摘している〔注3〕。スクウォッティングによってkoZeが誕生したということは、自分たちのアイディアにしたがって、自分たちの手によってのみ都市空間を領有していくという意志の実践的な表明であり、行政や資本に対する救いようのない失望と徹底的な拒否を示しているのである。
 ろう学校を占拠したあとにハンブルク市が利用を追認したのは、敷地全体からすると大きくなく、もともと保育園だった部分とその園庭のみであった。それでも活動を開始したkoZeは、当初からKuNaGeによって要求されていたフードコープや自転車の修理工房だけでなく、バー営業や上映会、講演会などさまざまな形で、さらに難民支援の拠点としても活用していくことで、この場所を地区内外に開いていった。また、保育園の園庭は地区に不足していた遊び場として開放され、室内ではヨガや格闘技の教室が開講されるまでに活動は広がっていった。
 koZeが目指していたのはおそらく、この場所を拠点としてどれだけ多くの人びとを組織化していけるかということ。この場所をより多くの人の生活のなかに組みこめるような形で領有していくことである。そして、そのための呼びかけにもなっている活動は、上記のような実践をはじめとして多岐にわたっている。目標とされていたのは、koZeという場所にたいして権力や資本が何らかの圧力を加えたとき、それが空間的に局限されたものでなく、そこでの実践を根拠として形成されたネットワーク総体への攻撃として受けとめられるような組織化なのである。ハンブルクの地元紙『ハンブルガーアーベントブラット(Hamburger Abendblatt)』に掲載されたkoZeからの声明では、「事態をエスカレートさせるつもりは無いが、市当局が地区の市民団体や難民グループ、炊き出しなどあらゆる活動を路上に投げ出すというのであれば、政治的な拠り所を喪失した悲しみや怒りが蔓延することになるだろう」とも述べている〔注4〕。「自分たちでこの空間を創っていく(Wir gestalten diesen Raum selbst!)」のであり、「そこに役所や政府はいらない(Hierfür brauchen wir weder Behörden noch den Senat.)」のである〔注5〕。しかし、koZeがこのようなものとして根付いていくほど、敷地内の建物を取り壊すためにいずれ立ち退きを要求することになる市当局やHBKによる措置は、当然強硬さを増していかざるをえない。
 koZeが活動を開始して以降、利用が許可されている保育園部分のほかにも使用契約を拡大するという要求がkoZeやKuNaGeから市当局に対してなされてきたが、両者のあいだに対話がもたれることはなく、それでもkoZeが無許可のまま建物の使用を広げるなどして双方の態度がますます硬直していった。そうした状況下で、2015年7月27日の朝5:30に一切の予告なしにkoZeへ工事業者が進入し工事資材が搬入されるということがあった。これに気づいたアクティビストが門を閉鎖して責任者との面談を要求すると、公安警察2名と同行してきた当局の代表者はkoZeとの交渉に応じず、機動隊を投入して資材の搬入を再開したのである。この工事はkoZeが利用している保育所部分と庭を挟んで反対側に位置する旧ろう学校校舎のアスベスト検査であるとされており、作業区域への立ち入りを禁止するためにベニヤ板を並べた壁が作られ、これを警察が24時間体制で警備するという状態がその後6週間にわたって続いた。その間に事態がエスカレートすることはなかったが、9月2日に突然、庭部分の強制排除が開始された。その日の朝5時半頃、警察がkoZeに対して庭にあるものを7時までのわずか1.5時間以内に全て撤去するよう命じ、koZeのアクティビストが庭のものを建物内部へと移動させている間にもショベルカーによってツリーハウスなどが撤去されてしまったのである〔注6〕。
 koZeが発行していたミニコミ“Cozy Times”は2015年9月の様子を記録した第5号でとまっている。ウェブサイトの更新も滞っており、最近の活動の詳細は分かっていない。ただし、koZeのFacebookページを見ると、2016年10月29日に開かれたパーティーを最後にして、それまでのろう学校の敷地内からは完全に退去しているようである〔注7〕。

3. koZeを足がかりに何を見るか――ハンブルクで起きていること

 かなり大まかな形で、ハンブルクのスクウォッティング運動についてkoZeという事例紹介をおこなった。ミュンツフィアテルに現われているのは、都市全体を俯瞰してその構造を再編しようとするハンブルクの都市再開発政策と、それぞれの生活の中で都市空間を生きている住民との間の空間の領有をめぐる対立である。とはいえ、koZeとミュンツフィアテルの事例だけではこのことをすべて説明できていない。少しずつ視野を広げていくと、ミュンツフィアテルの再開発は、その南方に位置するハーフェンシティとの差別化が意図されており、さらにこのハーフェンシティの再開発は、「エルベ川を飛び越える」ような形で港湾地域一帯をハンブルク中心市街に統合させていくという構想を含む、「成長し続ける都市」といったモチーフのもとにあることが明らかになってくる。
 「成長し続ける都市」・「エルベ川を飛び越える」というスローガンは2000年代のはじめに採択されたものだが、そこから現在にいたるまでにはオリンピック招致運動の挫折――2024年夏季五輪招致が住民投票によって否決された――といった出来事もあった。だからといって、「成長し続ける都市」という都市再開発のモチーフが破棄されたわけではない。2017年11月初頭の『シュピーゲル(Der Spiegel)』の記事によれば、ハンブルク西部の鉄道ターミナルになっているアルトナ駅を、市の中心寄りの隣駅・ディープシュタイヒ駅(Diebsteich)に移すという大規模な開発計画が浮上している。それによって運行が時間通りになり、乗り換えが楽になり、また中央駅の負担も分散されるというのが、ドイツ鉄道とハンブルク市の言い分である。ディープシュタイヒ駅が拡張されて新たなアルトナ駅となることで、もとのアルトナ駅は広大な空き地ができる。ここに新たな宅地開発が可能になるというのである〔注8〕。
 こうした動きも含めて、「成長し続ける都市」というモチーフが現在においてどのように働いているのかを注視していく必要がある。そしてそれが、さまざまな地区でどのような葛藤をひき起こしているのかということにも着目していかなければならない。今回はとっかかり点としてミュンツフィアテルのkoZeを取りあげたが、次回以降、すでに触れたような問題も含めてハンブルクで何が起きているのかということを、少しずつ考えていきたい。そして、常に“Wem gehört die Stadt?”と問い続けている取り組みのなかから反ジェントリフィケーションの戦術を学び取っていければと思う。

〔注1〕Bezirksamt Hamburg-Mitte, Aktive Stadtteilentwicklung 2005-2008(発行年不明)
 URL: http://www.muenzviertel.de/downloads/Themengebiet-Mnzviertel.pdf(最終閲覧日:2017年11月24日)
〔注2〕Der Münzviertel-Blog, Hauptsache Leerstand: ehemalige Schule für Hörgeschädigte Schultzweg 9
 URL: http://www.muenzviertel.de/blog/?p=1698(最終閲覧日:2017年11月24日)
〔注3〕Der Münzviertel-Blog, “Stadtplannung von Unten” oder Gelddruckmachine für profitgierige Investoren: Schlüsselprojekt: Neubebauung Schulgelände Schultzweg “Fördergebiet Münzviertel” (RISE)?
 URL: http://www.muenzviertel.de/blog/?p=1440(最終閲覧日:2017年11月24日)
Der Münzviertel-Blog, Einladung: Wahlanhörung zur Bürgerschaftswahl 2015 am 3.2.2015 um 19.30 Uhr im Werkhaus Münzviertel Rosenalle 11 2. Stock
 URL: http://www.muenzviertel.de/blog/?p=2442(最終閲覧日:2017年11月24日)
〔注4〕Hamburger Abendblatt, Sorge wegen einer zweiten Rote Flora in Hamburg
 URL: http://www.abendblatt.de/hamburg/article205372361/Sorge-wegen-einer-zweiten-Roten-Flora-in-Hamburg.html(最終閲覧日:2017年11月24日)
〔注5〕Solidarische Raumnahme, Rauhnahme im Münzviertel
 URL: http://www.raumnahme.de/Archive/522(最終閲覧日:2017年11月24日)
〔注6〕Das kollektive Zentrum, Cozy Times 4, 2015
 URL: https://www.docdroid.net/15zbs/cozy-times-4.pdf(最終閲覧日:2017年11月24日)
Das kollektive Zentrum, Cozy Times 5, 2015
 URL: http://koze.in/wp-content/uploads/2015/06/cozy-times-5.pdf(最終閲覧日:2017年11月24日)
〔注7〕URL: https://www.facebook.com/events/1879316975633139/(最終閲覧日:201年11月24日)
〔注8〕SPIEGEL ONLINE, Großprojekt Bahnhofsverlegung Altona Hamburgs Stuttgart 21
 URL: http://www.spiegel.de/wirtschaft/soziales/hamburg-neuer-bahnhof-altona-bringt-viele-nachteile-a-1175156.html(最終閲覧日:201年11月24日)

ジェントリフィケーションは差別を拡大再生産する

2017/11/20 原口 剛

 再生や再活用、ルネッサンスといった言葉は、影響を受けるであろう地域が、ジェントリフィケーションに先だってなんらかのかたちで力を奪われていたか、文化的な死に瀕していたことをうかがわせる。……けれども、往々にして見受けられるのは、ニュー・ミドルクラスがダイニングルームやベッドルームをひいきにしてストリートを蔑むかたわらで、きわめて活力ある労働者階級がジェントリフィケーションによって文化的に活力を奪われるという事実である。合衆国西部の「開拓者」というもともとの観念がそうであるように、現在都市に付与された「都市の開拓者」という観念は侮蔑的なものだ。いまもむかしもそれは、開拓されようとしている地域には誰も――少なくとも価値ある人々は誰も――住んではいない、ということを意味している。(ニール・スミス『ジェントリフィケーションと報復都市』ミネルヴァ書房、2016、57頁)

 TOKYO MX NEWS(2017年9月22日配信)によれば、「東京は5年連続で地価が上昇」し、「これまで上昇率の上位に入っていなかった荒川区南千住が一気に上昇率1位に上り詰め」たのだという(http://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=46512190)。南千住とは、大阪の釜ヶ崎や横浜の寿町とならぶ「三大ドヤ街」のひとつ、山谷がある地域だ。ずいぶん前から山谷の労働者福祉会館には、「山谷は労働者の街 労働者を排除する再開発反対!」というメッセージが掲げられていた。つまり山谷の労働者や活動家は、ジェントリフィケーションの波が押し寄せつつあること、自分たちの土地が脅かされつつあることを、肌身で感じとっていた。その予兆は、現実のものとなってしまったのだ。

 記事は、交通の利便性や商業施設の充実といった南千住の「人気の秘密」を挙げ、さらには次のような言葉を書き連ねる。「昔は怖くて来られなかった。うろうろしている人がいなくなったし、街がきれいになったから(うろうろする人は)余計にいなくなった」。ここで「うろうろしている人」と名指されているのは、この街で暮らしてきた日雇い労働者であり、失業した野宿生活者である。ジェントリフィケーションの過程にはらまれる暴力は、明らかだ。ここでは、過去のものになったはずの「浮浪者」という言葉が、よみがえっている。

 「ホームレス」という呼び名が一般的なものになったのは、1990年代以降のことだ。長らくかれらは、「浮浪者」と呼ばれてきた。戦前には「浮浪罪」という刑法の罪名があったことが示すように、その名ざしには流浪する下層労働者に対する敵対と差別が刻み込まれている。1980年代、横浜で少年たちによる野宿生活者の襲撃・殺傷事件――いわゆる「浮浪者襲撃殺傷事件」――が起きたことを受けて、この言葉に対する差別を告発する運動が取り組まれた。「野宿労働者」や「野宿生活者」といった言葉が提起され、やがて1990年代には「ホームレス」という言葉が定着していった。運動の力によって、「浮浪者」から「ホームレス」へと言葉は変えられたのである。しかし、野宿生活者に対する襲撃は現在まで起こりつづけている(http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/attackchronicle.htm)。各地で取り組まれている「よまわり」やパトロールは、この凄惨な暴力を二度と起こさせまいとする取り組みだ。

 上記の記事は、運動が勝ち取ったかろうじての成果や、いまだ取り組まれている地道な活動のすべてを踏みつぶし、ないがしろにする。同じようなことは、ほかの場所でも起こっている。もうひとつのドヤ街、大阪の釜ヶ崎ではどうだろうか。この地において「西成特区構想」を主導した鈴木亘は、その著書のなかで、「ホームレス」とは「外部不経済」をもたらす存在――つまり工場の廃液と同じような存在――だと断じる。

 第1に、公園や道路などの公共空間を占拠することにより、第三者が使用できなくなる。第2に、結核などの感染症が蔓延し第三者に拡がる。第3に、周辺環境が悪化し地価や賃貸料が下がる。第4に、路上生活の長期化にともなって健康悪化が進むと、最終的に重篤疾患となり生活保護から高額の医療費が支払われる。第5に、ホームレスをみると通行人が気の毒に思って不幸な気分になる(これも立派な外部不経済である)。(『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』東洋経済新報社、2016、11頁)

 この著者はしきりに「草の根」や「民主主義」を強調し、どうやら自身の立場がリベラルであると自認している。しかし他方で彼は、過去に活字化されてきた言葉のなかでももっとも露骨な差別を、なんのためらいもなく表明するのだ。注意してほしいのは、労働者を「うろうろしている人」と名ざし、あるいは「外部不経済」と名ざす行為が、ともに地価や賃貸料とセットで語られていることだ。つまりこれらは、ジェントリフィケーションという過程の最中で発せられている。とするならジェントリフィケーションとは、ニュートラルな経済的過程ではないし、都市経済の「自然な成り行き」でもない。あきらかにそれは、階級暴力を本質とする政治・経済的過程なのである。じじつジェントリフィケーションは、「浮浪者」という表現を呼び覚ましながら、野宿生活者に対する差別を拡大再生産させている。

 最後にもうひとつ、次のことを強調しておきたい。このような状況がもたらす影響は、決して山谷や釜ヶ崎だけにとどまるものではない。私たちがもしこのような言葉が流通することを許してしまったなら――しかも日雇い労働者や野宿生活者にとって反排除闘争の長年の拠点である山谷や釜ヶ崎でそれを許してしまったなら――、野宿生活者に対する差別は、都市全体へとおよぶだろう。差別の拡大と蔓延は、都市のいたるところで暴力をまき散らしていくことだろう。このような事態を、黙って見過ごすわけにはいかない。だから私たちは、反ジェントリフィケーションを唱えるのだ。

ロンドンの夜、プリンセス・ノキアは「ラテン・ヴィレッジを守れ!」と叫んだ

2017/11/12 村上 潔

 2017年11月10日、ロンドン、〈エレクトリック・ブリクストン〉(Electric Brixton|http://electricbrixton.uk.com/)。
 プリンセス・ノキア(Princess Nokia|http://princessnokia.org/)は自らのライブ・ツアーでこのヴェニューに降り立った(https://www.residentadvisor.net/events/1003031)。
 そのショーの最中、彼女は演奏を中断し、ロンドンのフェミニスト・グループ〈ザ・ロンドン・ラティンクス(The London Latinxs)〉が作成した「#SaveLatinVillage」Tシャツを脇に抱え、観客に次のように語りかけた。

とても美しい、イギリスに渡った南米移民たちのコミュニティがある。
ここがその場所。
そこはいま取り壊される危機にある。
[キャプション:プリンセス・ノキアはロンドンのラテンアメリカ系住人のコミュニティにおける社会浄化(Social Cleansing)の問題について呼びかけた。]
彼ら・彼女たちはセーフ・スペースを作り出した。
そのコミュニティのなかでものを売るために、そして生活のために。
[キャプション:彼女はブリクストンでのショーを中断した。]
女性たち、ありがとう。
あなたたちが私のショーに来てくれたことに感謝します。
そしてあなたたちが私に何か発言してほしいと依頼してくれたことに感謝します。
[キャプション:彼女は横断的フェミニスト・グループ〈ザ・ロンドン・ラティンクス〉と話をした。]
彼女たちは「ラテン・ヴィレッジを守れ(#SaveLatinVillage)」というすばらしい理念をもっている。【筆者注:実際にはノキアはここで“Save Latina”(ラテンアメリカ系女性を守れ)と言っている。上記の訳は映像の字幕に基づく。】
彼女たちは、インナーシティのコミュニティへのジェントリフィケーション――それはこのような苦しみをもたらすものであること――に対する認識を広めようと努力している。
[キャプション:スピーチのなかで彼女はトッテナムのラテン・ヴィレッジにも言及した。そこは10年以上もジェントリフィケーションと闘っている。]
たいへんだよね。
あなたたちの苦しみはすごく感じる。
私は心からあなたたちを愛しています。
[キャプション:彼女はまた、観客たちに、イギリスにおけるラテンアメリカ系住人たちの生活を尊重するよう求めた。]
私は黒人のアフリカ人を祖先にもつラテンアメリカ系女性です。
もしあなたたち〔観客〕が私をリスペクトするというなら、ここに現実に存在するラテンアメリカ系住人のコミュニティをリスペクトしてください。
自分自身を教育して。
これは、声を必要としている、社会に取り上げられることの少ない人々の問題だと理解して。
もっと知識が必要。そして、もっと支援が必要。[拍手と歓声]
(ノキアと観客でコール)「Save Latin Village!(ラテン・ヴィレッジを守れ!)」

*翻訳出典:“Princess Nokia: London Latinx community is facing gentrification”(2017/11/11|gal-dem)https://www.facebook.com/galdemzine/videos/1317231041716318/

 〈ザ・ロンドン・ラティンクス〉のレポートによれば、彼女は観客に向けて、「連帯、可視性〔運動を可視化すること〕、そしてロンドンのラテン・アメリカ系住人のコミュニティに対する敬意が重要であることを語った。そこで彼女は「#SaveLatinVillage」キャンペーンに対する圧倒的な美しいエールを送ってくれた」(https://www.facebook.com/thelondonlatinxs/posts/1749581385114790)。
 会場の入口脇の壁には、〈ザ・ロンドン・ラティンクス〉のメンバーであるヴィクトリア・ロハス(Victoria Rojas)がやってくるノキアのために描いた「バリオへようこそ!(Welcome to the Barrio!)*バリオ:スペイン語を話す人々の居住区」のグラフィティが踊っていた(https://www.facebook.com/thelondonlatinxs/photos/p.1749582318448030/1749582318448030/)。
 プリンセス・ノキアは1992年、ニューヨーク生まれ。
 音楽的なベースはヒップホップだが、彼女はRiot Grrrlからも大きな影響を受けている。過去のライブでステージ上からフロアに「Girls to the Front!」と呼びかけたパフォーマンスは、それを象徴している。
 そして彼女は作品やライブ会場の内外で、WOC(Women of color=有色人種女性たち)、クィア・トランスの人々をエンパワーするメッセージを多く発信している。
 その当然の帰結として、彼女は世界中の若いフェミニストたちから絶大な支持を寄せられる存在となった。
 この夜起こったことは、ニューヨークを活動拠点とするノキアが、ロンドンのフェミニストたちと果たした美しい邂逅だ。
 歓待した主体は〈ザ・ロンドン・ラティンクス(The London Latinxs)〉。彼女たちについては以下を参照してほしい。

  • Usayd Younis & Cassie Quarless “London Latinxs: Building Affinity Groups, Fighting Oppression”, STRIKE! Issue 15 (MAR-APR 2016): 29.=村上潔訳 2017/07/11 「【翻訳】ロンドン・ラティンクス――アフィニティ・グループを作り、抑圧と闘う」http://www.arsvi.com/2010/20170711mk.htm
  • The London Latinxs “Resist Gentrification!” (April 9, 2017 | facebook)=村上潔訳 2017/06/21 「[アピール]ジェントリフィケーションに抵抗せよ!」http://www.arsvi.com/2010/20170621mk.htm
  • The London Latinxs “[Event] Salsa&Samba Shutdown PART II” (June 19, 2017 | facebook)=村上潔訳 2017/06/22 「[イベント]サルサ&サンバ・シャットダウン パート2」http://www.arsvi.com/2010/20170622mk.htm
  • 村上潔 2017/07/01 「ロンドンの若きラテンアメリカ系フェミニストは「ジェントリフィケーションに抵抗せよ!」と叫ぶ」反ジェントリフィケーション情報センター https://antigentrification.info/2017/07/02/20170701mk/

 彼女たちはその反ジェントリフィケーション運動のなかで、歌やダンス、パフォーマンスを積極的に活用してきた。自らのもつ文化の力と、それを共有し、歓びを分かち合うことによって、現実の課題に対峙する力を増幅させてきた。その彼女たちに、音楽を通して少女たち・WOC・クィアやトランスの人々をエンパワーしてきたノキアが「出会った」。そして眩く愛おしい「出来事」が起こった……。しかしこれは夢や偶然ではなく、必然だったのだろう。
 こうした、反ジェントリフィケーション運動における国境・ジャンルを越えたフェミニストたちの連帯のありようは、メディアで報じられることは少ない(いや、ほぼない)。しかしこのような精神的紐帯とそれに基づくコミュニケーションの過程・確認・共有にこそ、ジェントリフィケーションに対抗する諸戦線の潜勢力が凝縮されているのだということは、強く強調して認識しておかねばならないだろう。なぜなら、有色人種女性・移民女性、そして同様の属性のノンバイナリーの人々、といった存在(そのコミュニティ)は、どの都市においてもジェントリフィケーションの格好の「標的」となりうるからだ。それに対抗するには、地域共同体単位の全体行動だけではなく、女性ならびにノンバイナリーの人々による広く・強く・直接的な連帯関係の構築が何より重要となる。
 さて、はたしてプリンセス・ノキアが「Tokyo」に降り立ったとき、彼女は誰に向かって何と叫ぶのだろうか。ふとそんな考えが頭をかすめた。

トリノの路上から(2)白煙の中で――トリノG7労働相会合反対デモ記録

2017/10/05 しろー

G7がやってきた!
 9月も終わりに近づき、トリノもすっかり秋になってきた。仕事も見つからず、というかあまり探す気にもならずバカンスボケのまま、1ヶ月が矢のように過ぎ去っていく。仕事、家庭、自分の人生にうんざりしている。そんな日々をふきとばすように、G7労働相会合がトリノで開催され、それに反対する人々によるデモが連日行われた。今回はそこで見たこと聞いたことをここにレポートする。

なんでデモに参加するの?
 自分は現在シェアハウスに住んでいる。8人の同居人のうち学生と労働者が半々で、家賃は普通の下宿の半分ぐらいだ。G7が近づき、学生の同居人たちに「デモに行かない?」と誘ってみると、「もちろん行く!」と即答したのが2人、「そもそもなんで反対しているの?」というのが1人だった。そこでたまたま遊びに来ていた同居人の友達も交えてみんなで議論になる。G7とはなにか、今回はなにについて話されるのかetcetc…。結局デモ参加派の勉強不足が露呈して、自分にお鉢が回ってきた。「あなたはなんでデモに参加するの?」という質問にイタリア語で答えるのはとても難しい、日本語でもちゃんと説明するのは不可能かもしれない。
 『G7参加国というのはみんなが投票で選んだわけじゃなくて、非民主的な会合でしかないのに大事なことが決定されて…』『いや実際はG7はもはや何も決定することはできないただのお茶会になっているんじゃないか…』などと色々なデモの意義を考えたが、結局「道路の真ん中を歩くのって最高だよ」「普段えらそうにしてる警察に文句が言える唯一の機会」「とにかく自分のムカついてることを人々と話し合うのに最適」などと答えるのが精一杯だった。
 知っている人も多いと思うが、ここイタリアでは2001年にジェノヴァ・サミット(当時はG8)が開かれ、サミット反対デモに参加した青年カルロ・ジュリアーニが警察に射殺されるという事件が起こっている。警察の暴力によって守られた非民主的な会議(ハンブルグで今夏開催されたG20では市民と警察の大規模な衝突があった)ということ以外にも、サミットを迎える都市は警察で溢れかえり、開催前には「浄化作戦」が行われることも問題だ。ここトリノも各国首脳を迎えるために夏前から市政府により様々な対策がとられてきた。

G7と都市浄化作戦
 以下に今年トリノで行われた、おそらくG7開催にも関係しているとみられる都市浄化作戦を見聞きした限り挙げてみる。

  • 春、市中心部の若者があつまる3つの地域で夜20時半以降の酒類の販売・持ち歩きが禁止される。バーは営業可能。これにより該当地域内の主に移民の人達が営むミニコンビニが大打撃を受ける。彼らの主な収入源は格安の酒。
  • 6月、学生のたまり場で、社会センター〈Askatasuna〉の目と鼻の先にあるサンタ・ジュリア広場を警察が襲撃。市民を殴打。上記罰金付き条例の施行後、広場を見回りに来た警察を若者が集団で追っ払ったことがあり、その報復だと思われる。この日は昼からAskatasuna前に警察が隊列を組み、挑発しておいて夜に全く関係のない広場へ襲撃をかけた。何人かの社会センター関係者が逮捕される。分別する必要はないが殴られたのは普通に飲み来ていた市民で、子供の誕生会が開かれていたバーでは、女性店員まで殴打されていた。翌朝トリノ市警察トップは「暴力社会センターを排除すべき」という声明を出した。
  • 6月、女子大学生活動家が街で検問にあったさい「お前のことはよく知ってるぞ」と警察に言われ、不当に連れ去られ拘留されリンチを受ける。またポルタパラッツォという移民・難民の人が多いゾーンで警察がアフリカ系の若者を流血するまで殴打。トリノで警察の暴力が激化し、全イタリアで特にフェミニストグループによる反暴力キャンペーンが貼られる(例えば https://nonunadimeno.wordpress.com/)。
  • 9月16日、主にアフリカ系の移民・難民たちが多くたむろするヴァレンティーノ公園で薬物捜査のBlitz(電撃一斉捜査)。16人逮捕。
  • サミット期間中トリノ市内の路上で働くセックスワーカーがいなくなる。

更にサミット期間中は閣僚が宿泊しているとみられる市中心のホテルの周囲数キロが「レッドゾーン」に指定され封鎖。デモ隊はおろか市民も入れなくなる。その他にも友人が駅で職務質問をされ靴下まで脱がされたりと、サミット開催中トリノ市は戒厳令下のような状態になった。

Tout Le Monde Déteste La Police!
 トリノの住民もサミットに対して黙っているわけではない。週末に開催されたサミットに対し、木曜から市内を流れるポー川のほとりで〈Sinistra Italiana〉主催の《99%の祭り》が開かれた。金曜夜にはストリートパレード《Reclaim The Street》が行われ、トラック4台、1000人以上が参加したサウンドデモ(音楽はHIP HOP、TEKNO、TRASHなど)は「レッドゾーン」に侵入しようとするも警察に阻まれ一時間以上ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを占拠。市内の交通を完全に麻痺させた。
 金曜のサミット当日には、市内で学生デモがうたれた。サミット自体はトリノ市郊外のヴェナリア離宮で行われているが(これも人々を怒らせる十分な理由になった。あるデモ参加者曰く「金持ち(閣僚たち)は宮殿で美味しい食事、俺達は失業して路頭に迷う」)、学生は市内を行進することを選んだようだ。「もう一つの世界は可能だ」「今日、トリノは我々のもの」と叫ぶのは高校生ぐらいの若者たち、レッドゾーンにさしかかると先頭を行く大学生や市民グループは警察の阻止線を突破しようとして警棒で殴打された。デモ隊と警察のにらみ合いが続く中、間に割って入ったのはNO TAVの旗を持った人たちだ(このデモは途中でNO TAVグループのデモ隊と合流し500人以上に膨れ上がっていた)。デモ隊はレッドゾーン侵入は諦め大通りを進む。途中友達の家の前を通り過ぎるとみな窓から見ている。「降りてこい降りてこい!今日はデモだぞ!」という歌に促されて友達たちも参加してくる。ヴィットリオ・エマヌエーレ広場につくと、また先頭で騒ぎが起きる。見に行くとまたも警察と睨み合っている、この時実は阻止線の穴を突破し何十人かがレッドゾーンに侵入したらしい。警察の大失態だ。どこからかフランス語の「Tout Le Monde Déteste La Police!(全世界が警察大嫌い)」の声が上がり、大合唱になる。その後デモ隊はトリノ大学の校舎に突入し「月曜まで占拠する」と宣言した。
 午後遅くからは市民グループ主催のデモがあり、一部はレッドゾーンに接したポー通りを行く途中、花火を発射し警察に一人逮捕された。
 ポー通りにある元王宮の厩を占拠した社会センター〈Cavallerizza Irreale〉では〈Radio Black Out〉主催の反G7パーティーが深夜まで開かれていた(音楽はHIP HOPだった)。

白煙の中で
 土曜日。一番大きなデモがあると聞いてヴァナリアへ。この日は2000人以上が参加しトリノ郊外のG7が開かれている宮殿へ向かう。デモ中ヴェナリア出身の友人が一つ一つ建物を指差し「あれは公営住宅」「あそこはマフィアの住んでる公営住宅」などと教えてくれる。「生きてるうちに俺達の街で大規模なデモが見られるなんて思いもしなかったよ」「こんなクソな街はすべて燃やし尽くしてしまえばいい」などと不穏なことをつぶやくわれわれのガイドとともに何もない道を二時間ほど歩くと、ヴェナリア離宮のすぐ近くの広場に出た。
 広場は来た道を除き完全に封鎖されていた。三方にある出口にはすべて機動隊のトラックと、簡易式の柵が据え付けられ、フル装備の機動隊が配備されている。武装警察が今にも襲い掛かってきそうな緊張感の中、広場の真ん中にでたデモ隊は用意していたギロチンを持ち出し、イタリアの労働相ポレッティを模した人形の首を落とした。このろくでもないパフォーマンスの後、デモ隊の一部が広場の正面出口、つまりサミット会場へ続く道へだんだんと近づいていった。彼らが押しているスーパーマーケットのカートの上には、クロワッサン型のパペットがのっていて、これは労働相ポレッティと、ピエモンテ料理の「polletti allo spiedo」の名前をかけたジョークらしい。このカート群を先頭にゆっくりと機動隊に近づく先頭集団。恐ろしいほどの緊張感。冷たい不思議な静寂がつづいたあと突然金属音がした。警察がデモ隊を殴り始めたのだ。パニックになり逃げ惑う人々、冷静になるよう呼びかけるデモに慣れた人もいる。ふと気がつくと、この時すでにデモ隊の中に全身黒づくめで覆面にサングラス、そしてフードを被った少人数の集団(Black Bloc)が複数登場していた。彼らのうちの何人かはすぐに花火を投げ始めた。花火の炸裂音が広場に響くとパニックは加速し、そこに玉ねぎのような異臭が立ち込める。警察が放った催涙ガスだ。涙が止まらないのはいいとして、鼻や口からガスを吸い込むと呼吸ができなくなる。ちょうど運良くポケットにレモンが入っていたのでそれを目の周りに塗りながら後退していると横にいたアナーキストのおじさんが「塗るんじゃない!かじれ!」と怒鳴ってくる。一口かじる。効果は何もないよりマシなぐらい。すぐにとなりにいた誰かにレモンを渡し、呼吸ができる場所まで後退する。「さあ新鮮な空気を吸ったらもう一回だ!」と再度の広場への前進をうながす声がする。また別の集団が、道路の真ん中で円陣のようなものを組んでいる。数秒すると円陣の真ん中から発煙筒の煙があがりはじめる。あたりは発煙筒と催涙ガスとで真っ白だ。二度目の広場への突入は散発的に花火が打ち込まれただけで、すぐに警察による放水と催涙ガスをくらってデモ隊は来た道を再び引き返していった。
 「こんな暴力的なやり方では意味がないわ」。デモに一緒に参加していた同居人が警察に花火を投げつけたBlack Blocに対し怒っている。「私だけじゃない、デモの後ろの方にいた労働組合の人たちもカンカンになって、途中でみんな帰っちゃったのよ」「何を言ってるんだ。暴力をふるったのは警察の方で、彼らはそれに抗議して花火を投げただけじゃないか」。一時間ほどのカオスの後、もと来た道を帰る道すがらまた議論になった。ドイツやフランスの抗議に比べれば今日のデモは全く穏やかな方だと思う。ましてや日本は…。
 三日間続いたサミットへの抗議は終わった。今回は労働相会合ということでいまいち反対する側も盛り上がりに欠けていたが「とにかく、〈何か〉はやったさ」という友達の言葉通り、街やデモをコントロールしようとする警察に対しての激しい抗議はなされたし、特に全国から来ていた若い学生たちは頑張っていたように見えた(「今すごく若者の間で共産主義者がふえている」とも聞いたが)。
 デモから街へ帰ると、市の中心はあいかわらず沢山の警察で溢れていた。しかし繁華街ではみないつものように店を開け、人々は何事もなかったかのように買い物を楽しみ、バーで乾杯していた。テレビのニュースでは、デモ隊の一人が警察への暴行容疑で逮捕されたといっていた。

アンドレアはどこ?
 日曜日、サミットの終わったトリノでは、土曜のデモ後に逮捕された人々への激励行動が組まれていた。ヴェナリアの近くにある巨大な刑務所まで200人ぐらいが行進していく。たどり着いたのは刑務所横のだだっ広い畑だ。一緒に歩く人の中にはアフリカやアラブからイタリアにたどりついたであろう若者や母親たち、そして小さい子供なども多い。なぜか聞くと、昨日警察への殴打容疑で逮捕された人は移民・難民の人々が暮らす不法占拠の活動家で、NO TAV運動にも熱心に取り組んでいたのだということを誰かが教えてくれた。目の前でアフリカ系の小さい男の子が、NO TAVの横断幕を持った女性活動家と話をしている。
「アンドレアはどこ?」
「あの中よ」
「遠くて全然見えないね」
「そうね、でもきっとすぐあえるわよ」
別のアフリカ系女性はマイクを握るとこういった。
「アンドレアはそこにいるべきじゃない。今すぐ帰る。私たちといっしょに家に帰る」
「アンドレアに自由を!自由を!自由を!……」
 抗議活動は2時間ほど、刑務所の塀を叩いたり花火を打ち上げたりして帰った。時おり中から誰かがこちらに手を降っているのが見えた。

トリノの路上から(1)NO TAVについて

2017/10/01 しろー

 あるパンフレット、不可視委員会刊行の『われわれの友へ』の中に、アルプス・スーザ渓谷での反新幹線運動について触れている部分があった。
 北部イタリア・トリノに住んで2年、家から電車で1時間ほどのスーザ渓谷(アルプスのなんでもない普通の村だ)にはデモ、集会、フェスティバル、キャンプのために頻繁に訪れていたけれど、このイタリア全土と一部フランスを巻き込んだ巨大なムーブメントが何なのか、深く考えたことはなかった。だけど現在進行系の世界中の「蜂起」を扱った不可視委員会のパンフレットが、この運動について特にページを割いて説明していて、自分としてもかなり腑に落ちるところがあったので、つたない文章だけれどここに少し自分の経験を交えて紹介したいと思う。
 ちなみに自分は現在無職で、ジェントリフィケーションの研究者でもなければ専門家でもなく、名のる名もない不逞分子、ひきこもり、都市に寄生するタダの「フリーター」である(この肩書を名のれるのも34歳までと知って今驚愕している)。したがって文章中の表記の正しさや年代の正確さ、事柄の確かな意味については保証したくてもできないし、ネット上にゴマンとイタリア語・英語の文章が転がっているのでそのへんは各自で適当に検証し補ってほしい。

 さて、

 あまり知っている人は多くないかもしれないが、イタリアでは反新幹線運動〈NO TAV(Treno ad Alta Velocità=高速新幹線)〉がとても有名で、各左派および一部リベラル、また一部宗教家、あるいはポピュリズム政党などの共通の合言葉になっている。
 アルプスをトンネルで貫き、トリノとリヨンを新幹線で結ぶという前時代的な計画がでたのは1990年代。トリノ市中心から約60キロ離れた山の中、電車で1時間ほどの場所にあるスーザ渓谷、Venausがそのイタリア側の工事現場だ。小さな町、村々、修道院や教会が点在し、修道院の収入源である栗の木が守られ続けている美しい渓谷。Wikipediaによると、「はっきりといつ始まったかは定かでない」が90年代にはすでに住人らによる反対運動が始まっていた。
 『われわれの友へ』にも書いてあったが、ここの反対運動はとても特殊だ。労組、アナキスト、コミュニスト、ヒッピー、教会関係の人たち、そしてスーザ渓谷の住人が奇妙に同居し、今のところ各グループ間に運動をめぐる大きな亀裂がないようにみえる。

 例を挙げると、毎年夏には巨大な野外フェスティバルが工事現場の真横で行われる。《Alta Felicità》(最高の幸福)と名付けられた反新幹線フェスティバルは3日間続き、子連れ、学生、労働者でごった返す。宿泊するにはテントを持ち込む。99posse、Subsonicaなど来ているアーティストも豪華だ。街ではノンポリの学生の間でもフェスティバルに行くのが流行になっていて、巨大なステージや照明セット、地元の人たちの物販店など見た目は商業主義の野外フェスと変わらない。全部カンパ制か安い値段で入れ、飲め、飯を食えることを除けば。
 そしてこのフェスティバルの開催中、夜間に何人かが徒党を組んで工事現場へ破壊工作に行く。非暴力の抵抗だ。待ち構えている警察は放水や殴打、逮捕で答える。
 ここでは子供連れのキャンプと非暴力直接行動が同時に行われている。地元のおじいさんがチーズを売る横で受付をしているのはトリノのアナーキストたち。コミュニスト学生は労働者と一緒に来ている。誰かが直接行動で逮捕されても、即座に救援行動が組まれる。日本の運動のように、「一部の過激派」がやったことだと逮捕者が運動から非難され、切り捨てられることは今のところない。
 スーザ渓谷の出口にあるサン・ミケーレ修道院へ続く山道で会った犬を連れた老人は、スーザ渓谷の歴史を「権力への抵抗だ」と簡単に説明してくれた。中世から続くスーザ渓谷の修道院の、あらゆる時の政権への土地をめぐる抵抗が、NO TAVの運動の根底にあるという。「この渓谷を選んだのが奴らの失敗だったね」と老人は笑いながらいった。自分たちがデモに参加したことを伝えると「君たちも仲間だったのか!(我々の一人だったのか)」と嬉しそうに握手してくれた。

 左派の強いトリノの近郊ということも手伝ってか、今やNO TAV運動は小さな谷の問題を飛び越えて、全イタリア、そしてフランスの問題になっている。NO TAVは日本でいう三里塚のような、辺野古・高江のような存在だということもできるかもしれない。鉄道建設予定地の土地をみなで買い取り地主になる、日本でいう「一坪地主」のような作戦も取られているなど日本の運動との共通点もある。また、NO TAV側からの要請で、日本とイタリアの人達による平和団体を通じて、祝島の工事妨害損害賠償の和解決着の顛末がイタリア語に翻訳されるなど、NO TAVは日本の反開発運動との接点もある(参考:“Movimento contro la costruzione della Centrale Nucleare di Kaminoseki”「TomoAmici 朋・アミーチ」2016/10/11)。
 イタリア中のあらゆる街の壁に、小さな村の塀に「NO TAV」の落書きを見ることができる。何もない山間部を数万人が歩くデモには南部イタリアからも送迎のバスが出て、学生は電車で乗り継いでやってくる。デモ隊をスーザ渓谷にある自治体の旗が立てられた村役場のトラックが先導する。労組や政党の旗に加えて各地域の開発の問題を訴える旗も出ていて、近年ではアドリア海の石油掘削反対〈NO TRIV〉、アゼルバイジャンと南イタリア・プーリア州をつなぐパイプライン反対〈NO TAP〉、シチリア島での米軍による衛星通信システム建設反対〈NO MUOS〉などの開発反対運動もはるばるデモに参加しに来ている。彼らはNO TAV運動に学ぼうと連帯にやってきたようにも見える。

 この前家に水道工事に来たおっちゃんが「この家にはNO TAVの横断幕がないから、右翼学生のシェアハウスに来たのかと思ったよ」と冗談を飛ばすほど、トリノのほぼすべての友達の家、特に若者のシェアハウスなどにはNO TAVのバナーが貼ってあるか、ステッカーがある。〈Dynamo Dora〉というトリノの「人民」ラグビーチームのTシャツはスクラムを組んだ人々が、新幹線を止めているというデザインだ。夏以外にもいろんなイベント(直近にやったのはハッカーミーティング、自然観察会、民家の壁へ壁画を書くイベントなど多様すぎてなにが行われているのかすべて把握しきれないほど)がVenausの団結キャンプ場で行われていて、テントを背負って週末スーザにキャンプに行くのはトリノの「オルタナティブ」な連中のトレンド化している。若い活動家やヒッピーの中には、スーザ渓谷に移住して生活し始めた人も多くいる。
 街では世界宗教者平和会議のような団体ですらバルコニーにNO TAVの旗を出し、五つ星運動の代表のようなポピュリストもスーザにいったことを自慢げにブログに書くほどだ。

 この運動の盛り上がりは、現在も反対する農民や学生、労働者に対する強烈な弾圧がつづき、最近では卒論にこの運動を取り上げただけで逮捕勾留された事件が起こっているという事実を感じさせないほどだ。はっきりいって田舎の、アルプス山間の新幹線反対運動がなぜここまで大きく、イタリアの国政に影響を及ぼすところまでいったのか、なぜ各々の主張も政治スタンスも違う人々がそれぞれ好き勝手な方法でNO TAV運動に携わることが可能なのか、自分にはまだまだわからないところがたくさんある。拙いイタリア語で見聞きしたことなのでこの文章には間違っている点も多いかもしれないが、とにかくNO TAV運動には、学ぶというか、考えるべきことが沢山あると思う。誰か真面目に研究したい人がいればぜひこちらに来ることを強くおすすめします。

 写真とかは以下のウェブサイトで!
 http://www.notav.info/

なぜアートはカラフルでなければいけないのか――西成特区構想とアートプロジェクト批判

中村 葉子(映像文化研究/中崎町ドキュメンタリースペース所属)

「灰色の街」に彩りを
 大阪南部の天王寺、新世界界隈は梅田の再開発に象徴される商業施設・高級マンションの乱立に追随して観光化、都市開発が歯止めなく行われている。十年前に比べると街並みは大きく変容を遂げ、残すはその周辺地域、特に行政や民間が開発に着手するのが難しい、釜ヶ崎(あいりん地域)に対してである。この小論ではこの地域に昨今流入してきている「アート」についてそれが都市再開発の流れの中でどのような役割を果たすのかを検討するものである。特に西成特区構想都におけるアートプロジェクトについて取り上げる。ここでいう「アートプロジェクト」は行政の公的支援ののもとで行われるものであり、特に一九九〇年代以降、過疎地や離島、貧困地域における地域活性化のための観光誘致、社会的マイノリティのエンパワメントの名の下で実施されてきた。そのようなアートプロジェクトが釜ヶ崎に移植され始めたとき、どのような問題が孕まれているのか。以下では、大きくわけて次の2点に絞って言及していきたい。

  1. アートが否定する都市の風景。
  2. アートプロジェクトは行政の都市再開発と連携することで「貧乏人」は追い出され「普通の町」へと作り変えていく。

 まず、1点目について、最近釜ヶ崎のメイン通りに現れたアートの事例から考えてみよう。これは去年からスタートした民間主導の「釜ヶ崎グラフィティアート」である。このプロジェクトはその名も「灰色の街に色彩の力を!」をスローガンに日本国内外のグラフィティアーティストが空き店舗のシャッターや老朽化した家の壁にグラフィティを描くものである。ある店主はこの絵のおかげで店先には立小便がなくなり、「迷惑行為の抑止効果」になっていると語る。そして老朽化した空家や荒廃していく街並みを再生させる、元気な街づくりにアートが貢献するそうだ。彼らの目には、釜ヶ崎は「灰色の街」、つまり高齢者が多くそこには活力がないものとして映っており、グラフィティという鮮やかな色を持ち込めば観光客が増えて街は活性化されると考えている。しかし、このような視点には、それまでに堆積してきた釜ヶ崎の都市の風景が全く無視されているのだ。いまも街を歩けば今も南海電車高架下に露店があり、古着、テレビ、道具類、海賊版DVD、賞味期限ぎれの菓子パン、真っ赤な服を着た朝鮮人の輸入タバコ屋がある。そして、一見ゴミであるが、リサイクルされてわずかな稼ぎになる、コタツ、箪笥、食器、タイヤ、導線、布団、ネジなどあらゆる物であふれている。それら無秩序な色彩とでもいえるものは、取り締まりの対象になる色だ。そしてさらに目を凝らして街を見れば、奥深くに様々な色が隠れている。夏祭りの慰霊祭は月明かりに照らされた鎮魂の青、暴動の火柱は奇声、歓声とともに真っ赤に燃えたぎるとともに、白と黒の陰影を鮮烈なものにしていった。
 つまり、ここにあるのは「色彩」対「灰色」の対立ではなく、一方の色彩の体制のみが称揚されるということなのだ。言い換えれば都市的なるものの色彩がショッピングモールやコンビニなどの等質空間が称揚する漂白された色彩によって淘汰されるということだ。そして、こうしたアートが帯びる色彩感覚は単にアートの文脈でのみ捉えられるべきものではない。それは民間、警察、行政、NPO、大学、住民が一体となって都市再開発のためのイメージの戦略として大きく展開されているものである。
 続けて、他のアートプロジェクトについてもいくつか挙げてみよう。二〇〇三年から大阪市の文化振興事業として始まった「Breaker Project」がある。市の文化事業として初期段階から取り組まれてきたもので、毎年テーマを変えながら長期的に行われている。その二〇〇八年のプロジェクトのテーマは「絶滅危惧・風景」である。プロジェクトのメンバーである雨森信によると、この年はアート作品を通じて失われつつある昔ながらの街の風景を再考するものであるという。そう語る反面、「絶滅危惧」という言葉を聞くと珍獣を見る奇異なまなざしを連想させる。まるで見世物を展示するような響きさえ持つ。実際、登場したアート作品は空き地に巨大なオモチャの恐竜が登場した。しかしこの場所は、当時住人や野宿する人々を締め出す柵で覆われた空き地であったし、今も開閉時間が厳しく管理された公園なのである。それは突如表れたオブジェであり、この地域でアートを展示する意味や場所性と関係なくとってつけられたような印象を持つものであった(Ⅰ)。
 このようにアートが街の風景に介入してくるとき、あまりに無批判すぎると思ったのは、次に見る「おおさかカンバス推進事業」で登場した「カンシカメラメカシ」である。文字通り監視カメラを玩具や造花などで可愛らしく「粧かす」のだ(Ⅱ)。こうしたアートは、人々を四六時中監視する状況への批判ではなく現状肯定の範疇を抜け出ないものである。当のアーティストによればカメラを目立つ形にして問題を可視化するという。けれどもこの作品にはカメラの抑圧性、不気味さなど一切無く、ただカメラと戯れているだけである。要するにここにはアートがもつ社会に対する批評性が欠落していると同時に、公的支援を受けることで、表現行為が限定的で、且つ無害なものになっているということである。そして今後ますますアートは無害化され、地域活性の為の道具に成り下がっていこうとしている。その極みとして「西成アート回廊プロジェクト」がある。これは、西成特区構想有識者の松村嘉久(阪南大学国際観光学部教員)と地元出身のラッパー「SINGO☆西成」によって進められているもので、釜ヶ崎を南北に走る南海電車高架下にグラフィティを描き、それをカメラで常時見張りながら観光客が周遊できる回廊を作るというものだ。「SHINGO☆西成」といえば釜ヶ崎出身で、かつてホルモン屋の前の壁に「今に見とけよ」と落書き(グラフィティ)をした人でもある。そこには貧困・差別といった現状に対する鬱屈した感情が少なからずこめられていると感じたものだが、いまやグラフィティアートは照明とカメラに見守られる中で、街の安全と美化に奉仕するようになったのだ。ただ、そうしたアートに対して、ある人は魅力のないものはそのうち消えるので放って置けばいいというかもしれないし、その立場性に明確に決別するアーティストも多くいるだろう。けれどもアートが自らの立場を検討せずに「自立性」を失ってくると、それは他者の「自立」をも阻害するものとしてあらわれる。そのためただアートと割り切って無視しえない次元にきているのだ。
 以下に見るような西成特区構想におけるアートプロジェクトはまさにそうした側面が強い。ここではアートが社会貢献の名目で日雇い労働者や生活保護受給者の排除ではなく、社会的つながりの創出をうたうものである。端的にいうとアートはこれまで行政が主導してきた「社会包摂」の役割を担うものとして捉えられている(Ⅲ)。しかし一見聞こえのいい文句と裏腹に、次のような側面は見過ごされてはならない。①釜ヶ崎の住人に付与される「ネガティブ」キャンペーン、②アートによる「ポジティブ」な倫理的規範の押し付けがそこに垣間みられる。そしてアートによる諸々のプログラムは釜ヶ崎を周辺の観光地と変わらぬ「普通の街」へと作り変えようとしているのだ。

西成特区構想とコミュニティアート
 以下では社会包摂型アートについて述べていくが、ひとまずアートの文脈と関係する西成特区構想のキー概念について触れておこう。橋本前市長、松井市長が西成特区構想は、生活保護、治安問題、教育・子育て支援、住宅開発など多岐にわたる。しかし、そのなかでもイメージアップ戦略における釜ヶ崎のイメージ「怖い、汚い」を払拭するのに躍起になっている。そのようなネガティブな要素としてくくられるものを排除すべく使われる言葉が人口の平均化である(若年層、子育て世帯の呼び込み)。特に特別顧問の鈴木亘の発言は高齢者をスムーズに「退出させる」ことで経済活性を叫び(Ⅳ)、ほかの有識者も同様の論調で、釜ヶ崎は「高齢化」、「人口減少」によって衰退化していくので、新たな人口を呼び込む住宅開発、観光資源の発掘が緊急に必要であるという。しかし、これはあたかもカラフルな人々の顔ぶれを謳っているようで、軽薄な色彩概念と同様にそこに生活する人びとにとっての色彩の豊かさ=生活の豊かさを考慮するものではないのだ。それゆえ、これまで「寄せ場」が担ってきた流動する下層労働者の受け皿となる街は殆ど議論に挙がらない。(その一方で現状としては、警察と行政による野宿者排除と露天の撤去が激しさを増している(Ⅴ)。有識者らが想定するものはあいりん労働福祉センターの寄せ場機能の解体、移設と、それに代わるショッピングモール、マンション、屋台村構想など、いわゆる「ジェントリフィケーションの適用」(鈴木亘の発言)を念頭においた突飛な意見ばかりなのだ(Ⅵ)。今後、注視すべきはこのような「高齢化」「過疎化」の言葉によるレトリックであり、それは釜ヶ崎に限らずあらゆる地域の街づくりにも導入されていくだろう。
 ふたたびアートの文脈に話をもどそう。西成特区構想の中でのアートプロジェクトは「コミュニティアート」と呼ばれる。ここでいうコミュニティアートは、釜ヶ崎に限ったことではなく、同じ日雇の街である横浜の寿町でもすでに導入さている。そこではアートの様々なプログラムに参加することで、自らの能力を発見し生き甲斐が生まれ、他者とのかかわりによって豊かな生活をはぐくむものとして語られる。しかし、実際アートが入り込むことで住人にとって本当に幸せが持ち込まれるのか、そこにはすでに豊かさや幸せがありアートは逆にそれらを阻害するものにならないかという議論もなされている(KOTOBUKIクリエイティブアクションの項目を参照(Ⅶ)。その点を踏まえたうえで釜ヶ崎におけるコミュニティアートもまた現行の人の生活にどのように関わってきているのだろうか。
 釜ヶ崎も同様、表現活動を通じて住民をエンパワメントしていくケアーの側面がある。またプロジェクトで生まれた作品や住民自身(語り部)を「地域資源」と呼び、経済活性化に寄与するものとして捉えている。先述した「Breaker Project」の雨森信、アートNPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)の運営に携わる上田伽奈代は二〇〇三年からフェスティバルゲートで活動を開始し、二〇〇八年から釜ヶ崎内で四つの拠点(インフォショップ・カフェ、メディアセンターなどを運営)で活動を行っている。釜ヶ崎のアート系の活動ではよく知られている団体だ。そして先にみた「アート回廊」を計画中の松村嘉久を含めたこの三者が特区構想の会議に呼ばれコミュニティアートの方針を提示している。これはYoutubeの動画サイトで詳しく見ることができる(「第十回西成特区構想有識者座談会」)。ここでの発言をもとにありむら潜(釜ヶ崎のまち再生フォーラム事務局長・西成特区構想有識者)はアートの役割について次のように報告書にまとめている。

  • アートは具体的な社会包摂の手法を持っている
  • つなぐ、新しい人や考え価値に出会う・孤独な人、コミュニケーションが下手な人が多く、表現しあうことで仲間ができる
  • 自己肯定力が高くなり、自傷や攻撃性が低くなり傷ついた心を回復していく
  • 売り言葉に買い言葉といった喧嘩よりもいろんな受け止め方を学ぶ・前向きの生き方に変わる・住民が語り部、案内役となり地域資源を発掘する
  • 仕事が生まれる

 そしてここから連想できることとして、人に優しく、自分にも優しく、お酒は控えめに、暴力はやめましょう、独り言や、独りでフラフラ歩かないようにしましょう、街の美化、安心・安全な街を作っていきましょう、云々。こう見ていくと、アートによる街づくりは、いわゆる一般社会の健康的で文化的な生活/人間へと更生させ、経済活動に組み込こもうとしているということだ。他方で、「ネガティブ」なイメージとして現れる攻撃性、喧嘩などは更生すべき問題として、個人の心理的側面に還元される。ここにあるのはなんと幅の狭い生き方の提示であろうか。あるいは、行政にとって推奨される逸脱のない範囲での「自立」枠組みであり、これまでのケアの領域や、アートの表現の幅さえも狭められているのだ。この地でなされてきた様々な実力行動、社会運動を見れば怒り、暴力、野次、投石が街の歴史を作ってきたにもかかわらず、そうしたエネルギーの噴出をアートを使ってなるだけゆるく、温かく、穏やかなものへと封じ込めようとするのだ。その線においてアートは行政にとって都合よく利用され、取り込まれてしまうのだ。
 また、こうしたアートに見られる更生プログラムは、都市再開発と肩を並べて進められていく。それをよく現わすのは、最近都市政策の新たなキーワードである「レジリエンス」である。この言葉は心理学用語からきており、人が外的なストレスを受けた場合、それを跳ね返すしなやかさ、打たれ強い精神力を指している。先に見たアートはまさにこの「レジリエンス」をアートで強化しようとするものである。そして、西成特区構想有識者で近畿大学建築学部教員の寺川政司は、街づくりにこの概念を援用し、防災も兼ね備えた、多世代が交流するコレクティブタウンを構想中である。そして不動産業界と協力しあい、空き地がマッピングされ、今後投機の対象にされていくのだ。空白のままにできない精神構造は、高齢化、老朽化が街の欠損であり否定されるべきものとして扱われる。他者の内面にまで土足で踏み込み、問題と見なせば治癒し、強迫的に穴を埋めようとする態度。これが人に対しても、空間に対しても行使されようとしているのだ。
 以上、釜ヶ崎で行われているアートプロジェクトと西成特区構想の諸問題について矢継ぎ早に見てきた。最後に西成特区構想に関して補足すると、今年度の「観光振興・地域資源活用」が議題のシンポジウムでは参加した住民からは多くの批判が寄せられている。その一例として、アートに公金を使わないで欲しい、地域の将来について利益誘導の議論に集中し、住まいや医療について議論がない、新今宮の古くからある新聞屋(屋台)が撤去されたが、いろんな人が商売をできる街として多様性を保ってほしい、交流人口を呼び込もうとするとき釜ヶ崎の労働者の人権が守られているか考える必要がある、という意見が寄せられた(Ⅷ)。西成特区構想は二〇一七年度に終了予定だが、地域に住まう人々の観点に立って何度も検討されなければいけないだろう。しかし一方でこの特区構想とかかわりなく街づくりやアートが日常的に形作っていく意識や態度が、より持続的に影響を及ぼしていくのではないかと危惧している。口当たりの良い言葉や、丁寧な態度にこそ内在化されている「政治性」を今後も見逃さないように批判を行っていきたいと思う。


(Ⅰ)恐竜のおもちゃは動物園前一番街の商店街の空き地で行われた、藤浩志による「トイザウルス」。
(Ⅱ)飯島浩二による「カンシカメラメカシ」。
(Ⅲ)「第一〇回 西成特区構想有識者座談会 議事録」の上田假奈代の発言。
(Ⅳ)「西成特区構想テーマ別シンポジウム「観光振興・市域資源活用について」議事録」参照。
(Ⅴ)二〇〇〇年代初頭から二〇一四年までを切り取ってみても天王寺のカラオケ屋台の撤去、露店の撤去、労働者の住民票の消除(選挙権の剥奪)、花園北公園に警察OBの詰所設置計画、街頭犯罪の撲滅を目的とした監視カメラの増設(二〇一三年度予算一億円)、また今年に入って新世界のジャンジャン横丁入口の露店が追い出され、跡地に花壇と柵が設置された。
(Ⅵ)「第二回 西成特区構想有識者座談会 議事録」の寺川政司の発言、また同座談会の配布資料「西成特区構想有識者座談会の今後の議論の進め方について(案)」における鈴木亘の文章を参照。
(Ⅶ)河本一満と会場の参加者との対談「社会×アートプロジェクト 表現活動と社会が抱える課題の接近」、『アートプロジェクト 芸術と共創する社会』熊倉純子監修、二〇一四、水曜社、二三五―二三七頁を参照。
(Ⅷ)「第5回 専門部会(シンポジウム)の会場アンケート結果 2」を参照。

※本稿は『インパクション』195号(特集:ネオリベとサブカル――新自由主義文化から脱却するために)、インパクト出版会、2014年、70-76頁に掲載されたものである。

大都市化するミラノに抗する「反万博の会」(1)――退廃・装飾・品位の暴力

2017/08/31 北川 眞也

 一昨年、ミラノで万国博覧会(Expo Milano 2015)が開催されたことを覚えているだろうか。2015年5月1日から10月31日にかけて催されたそれには、2,000万人以上の人びとが訪れたそうだ。日本のメディアでは、日本館の人気がすごかったという話ばかりだったように記憶している。ちなみに、この万博のテーマは、「地球に食料を、生命にエネルギーを」であった。当初、ミラノ万博は、かつての経済や技術の発展を主題としてきた万博とは異なり、発展の限界についての「グリーン万博」として開催されるべきだという意見も提出されていた。万博会場などの基本計画の作成に関わったステーファノ・ボエーリのような有名建築家も、経済危機における飢餓や貧困、食糧供給の持続性、気候変動の問題などが主題となることを期待していたようだ。そして現在、かれらは言う。「万博は見事に成功した」と。
 しかし、万博は万博である。どれほどクリーンとかグリーンだとか言われようとも、その本質は変わらない。土地を奪うこと、搾取すること、利潤を生み出すこと、階級的支配権力を強化すること、そして万博「以後」に適用されるべき社会統治のメソッドを実験に移すこと。ミラノの活動家ルーカによるなら、ミラノの万博の「内実」をめぐって、あるいは万博が描こうとする都市の姿をめぐって様々な議論がなされようとも、万博は結局「空っぽの箱」にすぎない。それは、すでに進行している都市空間の編成過程、そしてジェントリフィケーションをさらに進行させるための口実なのだ。万博はいわば、そのための好機として既存の支配階級によって利用される。「メガイベント」や「大事業」は、ジェントリフィケーションの過程をさらに加速させる装置として重宝されるのである。それゆえ、「地球に食料を、生命にエネルギーを」などいかなる理念が掲げられようとも、それはただの「装飾」でしかない。
 「装飾」。ミラノ万博の準備段階においても、すでに「装飾」はみられた。2007年10月22日から26日にかけて、パリの国際万博委員会がミラノを訪問した。それは、開催地をめぐって、イズミル(トルコ)と争っていたミラノの審査を行うためであった。この審査にさいして、ミラノではI LAV MILANというキャンペーンが展開された。LAVとは、英語のloveとイタリア語のlavareをあわせたものである。lavareとは「洗う」、「洗濯する」という意味だ。以下、当時の新聞記事の一部抜粋である。

「…ミラノは万博の審査に向けて準備をしている。副市長リッカルド・デ・コラートとともに言うならば、「都市にできるだけ最良の顔つきを与えるべく働こう」。クリーンになる都市、きれいな都市、たとえば、ミラノ中央駅においては、工事現場を「隠す」ために、スカラ座の技術者たちもまた雇われている。かれらは、一種の遠近画法のように、工事現場の足場を覆い隠す緞帳について学んできた人たちだ。加えて、それを照らすライトの位置についても学んできた人たちである。しかし、中央駅の美的かつ人間的「改良」は、清掃とメーキャップのとんでもない計画のただの一章に過ぎない……
 どこを掃除するのか? 今とは別のミラノを創出するのは不可能ではないのか。メーキャップの全般的なオペレーションは、今回の訪問が確実に立ち寄ることになる2つの「レッドゾーン」に集中する。ひとつは、市庁舎周辺の歴史的中心地区と大聖堂のあるエリア、もうひとつは中央駅だ。2つのエリアを隔てる行程にそうかたちで、労働者たちは道路を検査し、すべての生じうる路上のでこぼこを整えなくてはならないだろう。他方、水道と下水設備を管理するミラノ・メトロポリターナ社は、排水溝の網を検査し、それが詰まっているのを掃除せねばならないだろう。10月には雨が降りうる。水たまりも水の氾濫もよい概観ではないのだろう。
 ミラノ環境サービス社は、歩道、路上、広場の掃除に専念しなければならないだろう。様々なグラフィティの消去についてもだ。そしてまた、市では中心部の路上の張り紙・ポスター、植木箱、破損したゴミ箱の調査を交換のために行った。交換されるべき破損物のなかには、中央駅の外にある、ドゥーカ・ダオスタ広場を舗装する庇とブロックも載っている。実際、評価委員の訪問について、モラッティ市長はできるだけ注意深くあるようにと命令を下している。極めて用心深い調査員たちの移動と行程。というのは、それはテレビカメラからは遠いところでなされなくてはならない仕事だからである。
 それはまた、結成されたばかりの「反万博の会」の何らかの異議申し立ての危険を避けたいがためでもあろう。また別の危険はストライキだ。入念なやり方で、派遣団をマルペンサ空港に降り立たせないようにしたのは偶然ではない。マルペンサでは、空港拡張をめぐっていろいろと荒れている。それは、2015年に数百万人の訪問者を迎えようとする都市にとっては説明困難なことなのだろう。リナーテ空港のほうがよいというわけである。おそらくローマに立ち寄ることにもなろうが。他方で、万博会場となるロー-ペーロ(Rho-Pero)のフィエラ(見本市)には、評価員たちをヘリコプターで連れていくこととなる。かれらに将来のパビリオンが建設されるエリアを見せるためだ。しかし、ヘリコプターを用いるのは、フィエラの周辺に開けっぴろげになったままの工事現場の間をジグザグに進んでいくのを避けるためだと思われている……」(La Repubblica紙 2007年10月4日)。

 このオペレーションの目的は、「ルーマニア人のひったくり、麻薬密売人、駅の入り口で野宿している無一文者」などの「問題を起こしそうな人間たち(*1)を遠ざける」こと、ミラノ都市景観を「きれい」にみせることである。ただし、国際万博委員たちの訪問にさいして、あくまでも一時的にこのような装飾がなされているわけではない。むしろそれは、現代のミラノ都市空間、いや各地の都市空間においては恒常的なものとなっている。「装飾」は、昨今のジェントリフィケーションにしばしば伴ってきたイデオロギーでもある。「装飾」をほどこせば、暗い地域、荒れた地域、退廃した地域は、明るい地域に、品のある地域に、落ち着いた地域になると。
 イタリアでは今年に入って、都市に「装飾(decorazione)」、否、「品位(decoro)」を求め、それを維持することを求める政令(移民の排除・追放を強化する内容も含む)が制定された。その影響は恐るべきものがあるが、2017年5月の右派系新聞il Giornaleでは、中央駅近くでなされる移民の自殺が、都市を「退廃(degrado)」させる品のない行為として吊るし上げられていた(つまりこういうことだ。完全に私的に孤独に死んでくれ。自殺からいっさいの社会的・政治的意味を自分で剥奪しなら)。さらに、ホームレスの若者同士の路上セックスが、都市の体面を損なう行為として言及されていた。しまいには、こうした「退廃」をもたらす連中が、ジェントリファイされる品行方正な地区の内側へと入り込んできていることが厳しく批判されていた。路上での飲食、路上で勝手にたむろすること、そして立ち小便。路上の物売り、物乞い、グラフィティ、麻薬の密売。こうした行為・人物は、空間的に不可視とされなければならない。だから、公園などの空間の使用時間、特に夜間の使用時間も制限される。「ゼロ・トレランスから品位へ」。すべてはモラルの問題とされる。ローマの大都市ウェブジン「ディナモプレス(DinamoPress)」上で、「品位」について批判的な議論が積み重ねられつつあるが、要するに、「品位」とは(また「装飾」もか)、階級をめぐる問題なのだ。「品位」は常々、富裕な連中の観点において定義される(*2)。
 最後に、先に引用した新聞記事の最終段落において、何かしら「問題」とされた2つの主体に言及しておこう。一方は、労働者、空港の労働者であり、そのストライキである。ここには、人間、事物、情報のスムーズな流れ、高速の流れ、心地よい流れを妨げることの政治的な意味が、それと知らずにほのめかされているよう思われる。それは、労働者大衆の出会いや寄せ集まり自体が、下手をすれば「品位」がないと罰せられうる状況で、こうした振る舞いがもつ政治的な意味だ(また今度考えたいことである)。
 他方は、「反万博の会(comitato No Expo)」である。反万博の会とは、ミラノが候補地に立候補してから結成された、ミラノとその周辺地域の諸運動からなるゆるやかなネットワーク組織である(2007年7月結成)。ミラノ万博に反対する人びとがいたということは、あまり知られていないかもしれない。実際、「反万博の会」の活動家でもあるルーカは言う。ミラノのような大都市でこうした活動をするのは本当に困難なことだと。万博に反対する政党は当然のように存在しないが、すでに労働、失業、不安定性、土壌や大気の汚染、放置される地域など、様々な問題があるなかで、いまさら万博だからと言って、人びとにその「有害性」を認知してもらうことは難しい。だから、大規模な影響力を発揮することもなかなか困難であると(2013年8月に、筆者がミラノの研究者に反万博の会について話してみたところ、そのような運動があるとは知らない様子だった)。
 けれども、2015年5月1日の万博の初日に、様々な集団によって準備された反万博メーデーデモが行われて、それに5万人ほどが参加したこと、そしてそのときに「反万博の会」とは別に、武装した300人ほどの「ならず者たち(teppisti)」たちが、「すべてを粉砕する」として、都市空間にある無数の事物を破壊した、無数の火を放ったという事実もある。メディアはかれらをブラックブロックという「人びと」の仕業だとした。この「ならず者たち」は、とりわけ数々の銀行を破壊した、そして警官隊と衝突した。「都市ゲリラ」。いつものようにこの表現が用いられた。「連中は民主主義的なデモをだいなしにした」と、左派の運動や知識人からも批判的言明が相次ぐなか(このあたりは別途検討されねばならないが)、ビフォことフランコ・ベラルディはこう言った。たとえば、ギリシャをめぐる問題において露骨に明かされたように、とっくに民主主義は死んでいる。国民投票によって示されたギリシャの人びとの意志ではなく、何より優先されるのは、銀行システム、金融権力による決定、つまり資本主義の論理である。問題となっているは、民主主義でもないし、法権利でもない。それは、生と死以外の何ものでもないと(と同時にビフォは、金融権力はヴァーチャルなアルゴリズムの内部にあるがゆえに、銀行のガラスをいくら破壊しても、金融システムを破壊したことにはならないとも述べている)(*3)。
 それが階級闘争である限り、民主主義の問題を超過する。当初、万博は、シルヴィオ・ベルルスコーニ政権を支えたレティーツィア・モラッティ右派市政によってすすめられた。だが、2011年5月、ミラノでは20年ぶりとなる左派市長、極左政党と呼ばれたかつての「プロレタリア民主主義」(1975年にいくつかの新左翼集団が合流して結党)の一員であったジュリアーノ・ピザピーア市長が誕生した。それは、翌月にひかえた、水の私営化や原発導入の可否をめぐる国民投票へ向けたNOのキャンペーンが盛りあがっていたときでもあった(投票の結果、圧倒的大多数の「反対」によって、それらは導入されなかった。だが、後々、別ルートであっさりと水の私営化はすすめられた)。けれども、先ほどのルーカは言う。ピザピーアだろうが、モラッティだろうが、何にも変わらなかったと。それどころか、ある部分では、左派市政のほうが万博へ向けてより積極的に投資や宣伝を推進したのだと。さて、現在の資本主義のもと、そしてジェントリフィケーションのもとで先鋭化するのは、民主主義や法権利の問題ではない。それは端的に、生きるか、死ぬかである。「退廃」とされた種々の人間たち、「品位」がないとされた無数の人間たちが毎日のように対峙している現実は、生きるか死ぬかである。
 ちょうど先日、2017年8月23日に、ローマでエリトリア人たちが100人ほど、警官隊によって排除された。その数日前に、居住していた建造物(2013年10月から占拠されていた。主にエリトリア、エチオピアの出身者が1,000人ほど住んでいた)から排除され、行き場を失っていたかれらは、すぐ近くの独立広場で野宿をしていた。独立広場は、ローマ中心部のテルミニ駅に程近い場所にある。要するに、地中海で「救助」された後、放置されたこのエリトリア人の男性、女性、子どもたちは、早朝の襲撃によって、再び排除、追放されたのだ。これはほんの一例にすぎない。しかし、ジェントリフィケーションとも関わる現代都市でのこうした排除や立ち退きの暴力が、地中海とその南岸において、移民を封じ込め、大量に殺害し続けている暴力と同様の地平に位置していることが示唆されているように思われるのだ。ここにおいては、もっと明らかだろう。問題は、生きるか死ぬかである。そして、生そのものである。
 こうした状況が迫りくるなかで、「反万博の会」は、結成以来、どのような対抗運動を行ってきたのだろうか。2008年3月にミラノが万博開催地に決定してからも、かれらは支配権力のそれとは異なった目線において、万博と都市についての知識を生産し、それを血肉化しようと試みてきた。東京オリンピックをめぐる状況がすでにとんでもない暴力性をみせている今、ミラノの出来事を、あらためて振り返っておきたい(次回の北川記事へと続く予定)。


*1 ただし別の資料によると、このリストは相当長い。「社会センターの若者、レオンカヴァッロ[社会センター]、コックス18[社会センター]、反ファシスト、ロマ、移民、ゲイ、大聖堂広場にいる金のない[?]ムスリム、ジェンナー通りにいる金のない[?]ムスリム、パドヴァ通りのムスリム、トロリーバスの路線90/91のポルトガル人、公園でお祭り騒ぎをするペルー人、ヴェトラ広場のナイトライフ、ティチネーゼ地区のパンクス、チッタ・ストゥーディでの屋外飲酒、ランブロ公園での屋外飲酒、抵抗するいつもの教授陣たちによって操られた学生…」。Off Topic e Roberto Maggioni, Expopolis: il grande gioco di Milano 2015. Milano: Agenzia X, 2013, p.17.
*2 http://www.dinamopress.it/news/un-deserto-umano-chiamato-decorohttp://www.dinamopress.it/news/il-nemico-della-cittahttp://www.dinamopress.it/news/un-deserto-umano-chiamato-decoro
*3 http://effimera.org/dalla-parte-dei-teppisti-di-franco-berardi-bifo/

ジェントリフィケーション入門(1)地代格差論

2017/08/15 原口 剛

 ジェントリフィケーションは、都心からほど近くの「インナーシティ」と呼ばれる場所に襲いかかります。そこは、昔から安い住居や宿が密集していて、貧しい都市住民がかろうじて住むことのできる場所でした。なぜそのような場所に、ジェントリフィケーションが襲いかかるのでしょうか。資本にとってのメリットは、どこにあるのでしょうか。そのことを理解するためには、ジェントリフィケーションの基本的な理論を知ることが必要です。

 ジェントリフィケーションの理論には、おおきくいってふたつの系があります。ひとつは、「どのような人々が、なぜインナーシティに移り住んでくるのか」に着目するもの。これは「消費サイドの説明」と呼ばれる系です。もうひとつは、「どのような論理がジェントリフィケーションの過程を作動させているのか」を探究するもの。これは、「生産サイドの説明」と呼ばれる系になります。どちらの系の理論も、ジェントリフィケーションを分析するための道具として欠かせません。けれども、「そもそもジェントリフィケーションとは何なのか」を理解するためには、とくに後者の「生産サイドの説明」が重要です。なかでももっとも重要な理論が、「地代格差」と呼ばれる理論なのです。

 まずは、「ジェントリフィケーション」という概念や「地代格差論」という理論が生み出された背景を確認しておきましょう。「ジェントリフィケーション」という用語が生み出されたのは、1964年のことでした。ルース・グラスというイギリスの社会学者が、『ロンドン』という著作のなかでこの言葉を生みだしたのがはじまりです。この著作のなかでグラスは、ロンドンのインナーシティで、これまでにない変化が起きていることを発見しました。上で述べたように、「インナーシティ」とは、都心ちかくに位置する場所です。そこには安価な住居や安宿が密集していて、だからこそ貧しい都市住民の住まいとなってきました。ロンドンだけではありません。どの都市であっても、インナーシティはかならず存在しています。ところがその場所に、新たな居住者、しかも裕福なミドルクラスが次々と住み始めていることに、グラスは気づいたのです。この新しい階級変容の現象に、グラスは「ジェントリフィケーション」という名前を与えたのでした(グラスが「ジェントリ」という言葉を用いたのには、歴史的に深い理由があるのですが、そのことは別の回にあらためて解説したいと思います)。

 1964年にルース・グラスが「ジェントリフィケーション」という言葉を生みだしてから、この新しい現象はすぐさま注目されるようになりました。というのも、この現象はロンドンだけでなく、世界各地のさまざまな都市で起こっていたからです。このような状況のなかで、さまざまな研究者が、「いったい何が起こっているのか」を解明しようと奮闘してきました。上で述べたふたつの系の理論は、そのなかで練られていったものです。そうして1979年、地理学者のニール・スミスが決定的な論文を公表します。その論文こそが、地代格差論(rent gap theory)だったのです。この地代格差論は、いまなおジェントリフィケーションを考えるための、もっとも重要な理論でありつづけています。それは、いったいどのような理論なのでしょうか。とても図式的になってしまいますが、その内容をおおまかに説明してみましょう。なお、1979年にニール・スミスが提起した「地代格差論」は、アップデートされて『ジェントリフィケーションと報復都市』の第3章に所収されています。もっと詳しく知りたいと思った方は、ぜひ手に取って読んでみてください。

 ジェントリフィケーションや地代格差論を理解するためには、そもそもなぜインナーシティが生み出されたのか、というところから考えなくてはなりません。ここで、図Aをみてください。これは、アメリカのシカゴを例にした図です。タテ軸は「地価」を、ヨコ軸は「都心からの距離」を示しています。つまりこの図は、都心からさまざまな距離をもつ、それぞれの場所の地価が、歴史的にどのように変化してきたのかを示したものです。まずは1873年と1892年を比較してみてください。都心の地価がぐんぐん上昇していって、それに引っ張られるようにまわりの地価も上昇していることがわかります。この頃のシカゴは、急激に都市が工業化していました。都心に企業や工業が集積することで、都心の価値が急上昇していたわけです。さて次に、1892年と1928年を比較してみましょう。すると、地価を示した波のかたちが大きく変化していることに、すぐ気づくと思います。都心はあいかわらず地価が急上昇していますが、都心から離れた外側の場所でも同じく地価が急上昇しています。だから地価の波のかたちは、それまでの山のようなかたちと違って、ふたこぶのかたちをしています。じつはこのとき、新しい都市形成の過程が始まっています。つまり、郊外化という過程です。急激に都市化した当時のシカゴでは、資本主義の矛盾が爆発し、街は工場のばい煙で覆い尽くされていました。なにより、新たに流れ入った労働者たちが階級闘争を繰り広げる舞台となっていました。怒りと闘争心に満ちた労働者たちの群れに直面した富裕層は、それまでのように都心に住まうことを嫌い、心安らぐ地を求めました。そうして、郊外にじぶんたちの住宅地を求めるようになったのです(だからアメリカでは、郊外化は「ホワイト・フライト(白人の逃避)」とも呼ばれます)。それとともに、郊外には莫大な開発資本がこぞって投下されていきます。山を崩し、森を拓き、富裕層に向けた住宅地である「ブルジョワ・ユートピア」が開発されていったのです。

20170815ht-A図A:『ジェントリフィケーションと報復都市』103頁より

 さて、もういちど図Aに目を戻してください。都心からほど近い場所では、真逆のことが起っていることが分かります。都心と郊外の地価がどんどん上昇していくのに反して、この場所では地価が下落していくのです。この「地価の谷間」の場所が、インナーシティの地にあたります。この地では、いったいなにが起こっていたのでしょうか。どの時代でも不動産開発資本は、利潤のあがる場所を探し求めようとします。この時代は郊外こそが、高い利潤を約束する場所でした。なにしろ、それまで山や森や野原として放置されていた場所が一気に価値ある場所になったわけですから、資本はいっせいに群がります。かたやインナーシティは、より多くの利潤を追い求める不動産開発資本にとって、うまみのある場所ではなくなっています。だから、郊外につぎつぎと資本が投下され開発されていくその裏側で、インナーシティの建物や住宅からは資本が引き揚げられていきました。いわば資本から見放され、放置されたのです。修繕もろくに行なわれず、建物は老朽化する一方。見放されていますから、家賃は安い。そうして、貧しい労働者階級やマイノリティがかろうじて住むことのできる場所になったのです。こうしてみると、郊外の開発とインナーシティの形成とは、表裏一体の過程だったことがわかります(このことは、「不均等発展」という重大なテーマにかかわるのですが、それについては回をあらためたいと思います)。

 ここまで長々と都市形成の過程について述べてきました。もしかしたら遠回りに感じたかもしれません。けれどもジェントリフィケーションを考えるためには、たんに現在をみるだけでなく、それ以前の時代になにが起こってきたのかを考えることが欠かせません。都心/インナーシティ/郊外というように、時代の変遷のなかで都市が階級的に分割され、分離されてきた事実があるからこそ、ジェントリフィケーションは引き起こされるものなのです。いま、都市を見渡してみてみましょう。郊外はもう、あらかた開発しつくされてしまっています。ここまでくると、これ以上開発してもたいした利潤はあがらないし、不動産開発資本にとってたいした魅力はありません。では、インナーシティはどうでしょうか。ここで、図Bをみてください。これは先ほどの図Aとは違って、インナーシティの場所だけを切り取り、取り上げた図です。タテ軸には「金額」が、ヨコ軸には「(建設時から経過した)時間」が描かれています。そして、四つの要素(「価格」「住宅の価値」「資本還元された地代」「潜勢的地代」)の変化が描かれています。ちなみに「価格」というのは、「住宅の価値」と「資本還元された地代」を足しあわせたものです。多くの人は月々家賃を支払っていると思いますが(家賃も地代と同じく「レント(rent)」です)、この家賃には、家屋への支払いと土地への支払いが、どちらも含まれているのです。図Bからみてわかるとおり、新たに建てられた住宅の価格は、時を経るとともに下落していきます。

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図B:『ジェントリフィケーションと報復都市』111頁より

 しかしジェントリフィケーションにとってなにより根本的なのは、じつは、「資本還元された地代」と「潜勢的地代」との関係なのです。「資本還元された地代」とはややこしい表現ですが、要するに現状の地代のことです。これに対して「潜勢的地代」とは、もしその土地をいまとは違う、別のかたちで利用したらならひょっとして得られるかもしれない、可能的な地代を指します。ここで思い起こしてほしいのですが、インナーシティでは住宅や建物が資本に見放され、放置されるという状態がつづいてきました。家賃や地代が安いからこそ、そこは貧しい労働者階級やマイノリティが住み続けることができたのです。このような状況が長らくつづくなかで「資本還元された地代」は、時間がたつとともに低下していきます。しかし、それとは反比例するように、「潜勢的地代」はどんどん高くなっていきます。要するにインナーシティでは、地代の側面からみれば、長きにわたり資本が引き揚げられてきたがために、「資本還元された地代」が「潜勢的地代」からかけ離れていくという事態が起きたのです。このふたつの地代のあいだの格差(ギャップ)が、地代格差と呼ばれるものです。

 この地代格差こそ、ジェントリフィケーションを駆動させる根本の原理です。地代格差が一定の大きさにまで広がったとき、そこにジェントリフィケーションの可能性が生まれます。上で述べたように、郊外は開発しつくされてしまって、もう利潤のうまみは消え失せてしまいました。そこで目ざとい不動産開発資本は、インナーシティに目を向け始めます。なにしろ、地代のありよう(資本還元された地代)は、他の場所に比べて極端に低い。しかも、別様に開発したら得られるだろう地代のポテンシャル(潜勢的地代)は、十分すぎるほど高いのですから。もしその場所をうまく開発せしめたならば――とおい昔に郊外がそうであったように――莫大な利潤をあげることができます。かくしてインナーシティは、ジェントリフィケーションの標的とされるのです。「都市再生」や「地域再生」を掲げたプログラムには、「好立地なのに地価が安い」とか、「開発により大きな価値を生む可能性がある」とか、そのような言葉が並べられることがよくあります。それらの言葉が指し示しているのは、まさに「地代格差」であり、ジェントリフィケーションなのです。

 このように捉えると、ジェントリフィケーションとはけっして「自然な過程」ではないことがわかります。それは、深く資本主義の力学に根差した過程なのです。郊外化の時代にあって資本主義は、「地代の谷間」であるインナーシティを生みだし、貧しい労働者階級やマイノリティを封じ込めました。ひるがえって現代では、みずからが生み出した「地代の谷間」へと開発の矛先を向け、そこから利潤を生み出そうとするのです。貧しい労働者階級やマイノリティは、かつて資本主義によってインナーシティへと封じ込められて、こんどはそのインナーシティから追い払われようとしています。この点からしても、ジェントリフィケーションが「階級」への問いから切り離せないことは、あきらかでしょう。

 さて、ここでは「地代格差論とはなにか」をおおまかに解説してみました。簡略化した解説ではありますが、要点は理解してもらえたのではないかと思います。ただし、ここで紹介したのは、あくまで地代格差論の図式的な説明にすぎません。これだけみるとジェントリフィケーションは、あたかも自動的に進んでいく経済的な過程であるように思われるかもしれません。けれどもじっさいには、ジェントリフィケーションとは、政治的な過程でもあります。そこには、立ち退きのような暴力や、労働者やマイノリティの闘争といった、さまざまな要素が深くかかわっています。それらのテーマについては、こんご回を重ねるなかで書いていきたいと思います。