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トリノの路上から(2)白煙の中で――トリノG7労働相会合反対デモ記録

2017/10/05 しろー

G7がやってきた!
 9月も終わりに近づき、トリノもすっかり秋になってきた。仕事も見つからず、というかあまり探す気にもならずバカンスボケのまま、1ヶ月が矢のように過ぎ去っていく。仕事、家庭、自分の人生にうんざりしている。そんな日々をふきとばすように、G7労働相会合がトリノで開催され、それに反対する人々によるデモが連日行われた。今回はそこで見たこと聞いたことをここにレポートする。

なんでデモに参加するの?
 自分は現在シェアハウスに住んでいる。8人の同居人のうち学生と労働者が半々で、家賃は普通の下宿の半分ぐらいだ。G7が近づき、学生の同居人たちに「デモに行かない?」と誘ってみると、「もちろん行く!」と即答したのが2人、「そもそもなんで反対しているの?」というのが1人だった。そこでたまたま遊びに来ていた同居人の友達も交えてみんなで議論になる。G7とはなにか、今回はなにについて話されるのかetcetc…。結局デモ参加派の勉強不足が露呈して、自分にお鉢が回ってきた。「あなたはなんでデモに参加するの?」という質問にイタリア語で答えるのはとても難しい、日本語でもちゃんと説明するのは不可能かもしれない。
 『G7参加国というのはみんなが投票で選んだわけじゃなくて、非民主的な会合でしかないのに大事なことが決定されて…』『いや実際はG7はもはや何も決定することはできないただのお茶会になっているんじゃないか…』などと色々なデモの意義を考えたが、結局「道路の真ん中を歩くのって最高だよ」「普段えらそうにしてる警察に文句が言える唯一の機会」「とにかく自分のムカついてることを人々と話し合うのに最適」などと答えるのが精一杯だった。
 知っている人も多いと思うが、ここイタリアでは2001年にジェノヴァ・サミット(当時はG8)が開かれ、サミット反対デモに参加した青年カルロ・ジュリアーニが警察に射殺されるという事件が起こっている。警察の暴力によって守られた非民主的な会議(ハンブルグで今夏開催されたG20では市民と警察の大規模な衝突があった)ということ以外にも、サミットを迎える都市は警察で溢れかえり、開催前には「浄化作戦」が行われることも問題だ。ここトリノも各国首脳を迎えるために夏前から市政府により様々な対策がとられてきた。

G7と都市浄化作戦
 以下に今年トリノで行われた、おそらくG7開催にも関係しているとみられる都市浄化作戦を見聞きした限り挙げてみる。

  • 春、市中心部の若者があつまる3つの地域で夜20時半以降の酒類の販売・持ち歩きが禁止される。バーは営業可能。これにより該当地域内の主に移民の人達が営むミニコンビニが大打撃を受ける。彼らの主な収入源は格安の酒。
  • 6月、学生のたまり場で、社会センター〈Askatasuna〉の目と鼻の先にあるサンタ・ジュリア広場を警察が襲撃。市民を殴打。上記罰金付き条例の施行後、広場を見回りに来た警察を若者が集団で追っ払ったことがあり、その報復だと思われる。この日は昼からAskatasuna前に警察が隊列を組み、挑発しておいて夜に全く関係のない広場へ襲撃をかけた。何人かの社会センター関係者が逮捕される。分別する必要はないが殴られたのは普通に飲み来ていた市民で、子供の誕生会が開かれていたバーでは、女性店員まで殴打されていた。翌朝トリノ市警察トップは「暴力社会センターを排除すべき」という声明を出した。
  • 6月、女子大学生活動家が街で検問にあったさい「お前のことはよく知ってるぞ」と警察に言われ、不当に連れ去られ拘留されリンチを受ける。またポルタパラッツォという移民・難民の人が多いゾーンで警察がアフリカ系の若者を流血するまで殴打。トリノで警察の暴力が激化し、全イタリアで特にフェミニストグループによる反暴力キャンペーンが貼られる(例えば https://nonunadimeno.wordpress.com/)。
  • 9月16日、主にアフリカ系の移民・難民たちが多くたむろするヴァレンティーノ公園で薬物捜査のBlitz(電撃一斉捜査)。16人逮捕。
  • サミット期間中トリノ市内の路上で働くセックスワーカーがいなくなる。

更にサミット期間中は閣僚が宿泊しているとみられる市中心のホテルの周囲数キロが「レッドゾーン」に指定され封鎖。デモ隊はおろか市民も入れなくなる。その他にも友人が駅で職務質問をされ靴下まで脱がされたりと、サミット開催中トリノ市は戒厳令下のような状態になった。

Tout Le Monde Déteste La Police!
 トリノの住民もサミットに対して黙っているわけではない。週末に開催されたサミットに対し、木曜から市内を流れるポー川のほとりで〈Sinistra Italiana〉主催の《99%の祭り》が開かれた。金曜夜にはストリートパレード《Reclaim The Street》が行われ、トラック4台、1000人以上が参加したサウンドデモ(音楽はHIP HOP、TEKNO、TRASHなど)は「レッドゾーン」に侵入しようとするも警察に阻まれ一時間以上ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを占拠。市内の交通を完全に麻痺させた。
 金曜のサミット当日には、市内で学生デモがうたれた。サミット自体はトリノ市郊外のヴェナリア離宮で行われているが(これも人々を怒らせる十分な理由になった。あるデモ参加者曰く「金持ち(閣僚たち)は宮殿で美味しい食事、俺達は失業して路頭に迷う」)、学生は市内を行進することを選んだようだ。「もう一つの世界は可能だ」「今日、トリノは我々のもの」と叫ぶのは高校生ぐらいの若者たち、レッドゾーンにさしかかると先頭を行く大学生や市民グループは警察の阻止線を突破しようとして警棒で殴打された。デモ隊と警察のにらみ合いが続く中、間に割って入ったのはNO TAVの旗を持った人たちだ(このデモは途中でNO TAVグループのデモ隊と合流し500人以上に膨れ上がっていた)。デモ隊はレッドゾーン侵入は諦め大通りを進む。途中友達の家の前を通り過ぎるとみな窓から見ている。「降りてこい降りてこい!今日はデモだぞ!」という歌に促されて友達たちも参加してくる。ヴィットリオ・エマヌエーレ広場につくと、また先頭で騒ぎが起きる。見に行くとまたも警察と睨み合っている、この時実は阻止線の穴を突破し何十人かがレッドゾーンに侵入したらしい。警察の大失態だ。どこからかフランス語の「Tout Le Monde Déteste La Police!(全世界が警察大嫌い)」の声が上がり、大合唱になる。その後デモ隊はトリノ大学の校舎に突入し「月曜まで占拠する」と宣言した。
 午後遅くからは市民グループ主催のデモがあり、一部はレッドゾーンに接したポー通りを行く途中、花火を発射し警察に一人逮捕された。
 ポー通りにある元王宮の厩を占拠した社会センター〈Cavallerizza Irreale〉では〈Radio Black Out〉主催の反G7パーティーが深夜まで開かれていた(音楽はHIP HOPだった)。

白煙の中で
 土曜日。一番大きなデモがあると聞いてヴァナリアへ。この日は2000人以上が参加しトリノ郊外のG7が開かれている宮殿へ向かう。デモ中ヴェナリア出身の友人が一つ一つ建物を指差し「あれは公営住宅」「あそこはマフィアの住んでる公営住宅」などと教えてくれる。「生きてるうちに俺達の街で大規模なデモが見られるなんて思いもしなかったよ」「こんなクソな街はすべて燃やし尽くしてしまえばいい」などと不穏なことをつぶやくわれわれのガイドとともに何もない道を二時間ほど歩くと、ヴェナリア離宮のすぐ近くの広場に出た。
 広場は来た道を除き完全に封鎖されていた。三方にある出口にはすべて機動隊のトラックと、簡易式の柵が据え付けられ、フル装備の機動隊が配備されている。武装警察が今にも襲い掛かってきそうな緊張感の中、広場の真ん中にでたデモ隊は用意していたギロチンを持ち出し、イタリアの労働相ポレッティを模した人形の首を落とした。このろくでもないパフォーマンスの後、デモ隊の一部が広場の正面出口、つまりサミット会場へ続く道へだんだんと近づいていった。彼らが押しているスーパーマーケットのカートの上には、クロワッサン型のパペットがのっていて、これは労働相ポレッティと、ピエモンテ料理の「polletti allo spiedo」の名前をかけたジョークらしい。このカート群を先頭にゆっくりと機動隊に近づく先頭集団。恐ろしいほどの緊張感。冷たい不思議な静寂がつづいたあと突然金属音がした。警察がデモ隊を殴り始めたのだ。パニックになり逃げ惑う人々、冷静になるよう呼びかけるデモに慣れた人もいる。ふと気がつくと、この時すでにデモ隊の中に全身黒づくめで覆面にサングラス、そしてフードを被った少人数の集団(Black Bloc)が複数登場していた。彼らのうちの何人かはすぐに花火を投げ始めた。花火の炸裂音が広場に響くとパニックは加速し、そこに玉ねぎのような異臭が立ち込める。警察が放った催涙ガスだ。涙が止まらないのはいいとして、鼻や口からガスを吸い込むと呼吸ができなくなる。ちょうど運良くポケットにレモンが入っていたのでそれを目の周りに塗りながら後退していると横にいたアナーキストのおじさんが「塗るんじゃない!かじれ!」と怒鳴ってくる。一口かじる。効果は何もないよりマシなぐらい。すぐにとなりにいた誰かにレモンを渡し、呼吸ができる場所まで後退する。「さあ新鮮な空気を吸ったらもう一回だ!」と再度の広場への前進をうながす声がする。また別の集団が、道路の真ん中で円陣のようなものを組んでいる。数秒すると円陣の真ん中から発煙筒の煙があがりはじめる。あたりは発煙筒と催涙ガスとで真っ白だ。二度目の広場への突入は散発的に花火が打ち込まれただけで、すぐに警察による放水と催涙ガスをくらってデモ隊は来た道を再び引き返していった。
 「こんな暴力的なやり方では意味がないわ」。デモに一緒に参加していた同居人が警察に花火を投げつけたBlack Blocに対し怒っている。「私だけじゃない、デモの後ろの方にいた労働組合の人たちもカンカンになって、途中でみんな帰っちゃったのよ」「何を言ってるんだ。暴力をふるったのは警察の方で、彼らはそれに抗議して花火を投げただけじゃないか」。一時間ほどのカオスの後、もと来た道を帰る道すがらまた議論になった。ドイツやフランスの抗議に比べれば今日のデモは全く穏やかな方だと思う。ましてや日本は…。
 三日間続いたサミットへの抗議は終わった。今回は労働相会合ということでいまいち反対する側も盛り上がりに欠けていたが「とにかく、〈何か〉はやったさ」という友達の言葉通り、街やデモをコントロールしようとする警察に対しての激しい抗議はなされたし、特に全国から来ていた若い学生たちは頑張っていたように見えた(「今すごく若者の間で共産主義者がふえている」とも聞いたが)。
 デモから街へ帰ると、市の中心はあいかわらず沢山の警察で溢れていた。しかし繁華街ではみないつものように店を開け、人々は何事もなかったかのように買い物を楽しみ、バーで乾杯していた。テレビのニュースでは、デモ隊の一人が警察への暴行容疑で逮捕されたといっていた。

アンドレアはどこ?
 日曜日、サミットの終わったトリノでは、土曜のデモ後に逮捕された人々への激励行動が組まれていた。ヴェナリアの近くにある巨大な刑務所まで200人ぐらいが行進していく。たどり着いたのは刑務所横のだだっ広い畑だ。一緒に歩く人の中にはアフリカやアラブからイタリアにたどりついたであろう若者や母親たち、そして小さい子供なども多い。なぜか聞くと、昨日警察への殴打容疑で逮捕された人は移民・難民の人々が暮らす不法占拠の活動家で、NO TAV運動にも熱心に取り組んでいたのだということを誰かが教えてくれた。目の前でアフリカ系の小さい男の子が、NO TAVの横断幕を持った女性活動家と話をしている。
「アンドレアはどこ?」
「あの中よ」
「遠くて全然見えないね」
「そうね、でもきっとすぐあえるわよ」
別のアフリカ系女性はマイクを握るとこういった。
「アンドレアはそこにいるべきじゃない。今すぐ帰る。私たちといっしょに家に帰る」
「アンドレアに自由を!自由を!自由を!……」
 抗議活動は2時間ほど、刑務所の塀を叩いたり花火を打ち上げたりして帰った。時おり中から誰かがこちらに手を降っているのが見えた。

トリノの路上から(1)NO TAVについて

2017/10/01 しろー

 あるパンフレット、不可視委員会刊行の『われわれの友へ』の中に、アルプス・スーザ渓谷での反新幹線運動について触れている部分があった。
 北部イタリア・トリノに住んで2年、家から電車で1時間ほどのスーザ渓谷(アルプスのなんでもない普通の村だ)にはデモ、集会、フェスティバル、キャンプのために頻繁に訪れていたけれど、このイタリア全土と一部フランスを巻き込んだ巨大なムーブメントが何なのか、深く考えたことはなかった。だけど現在進行系の世界中の「蜂起」を扱った不可視委員会のパンフレットが、この運動について特にページを割いて説明していて、自分としてもかなり腑に落ちるところがあったので、つたない文章だけれどここに少し自分の経験を交えて紹介したいと思う。
 ちなみに自分は現在無職で、ジェントリフィケーションの研究者でもなければ専門家でもなく、名のる名もない不逞分子、ひきこもり、都市に寄生するタダの「フリーター」である(この肩書を名のれるのも34歳までと知って今驚愕している)。したがって文章中の表記の正しさや年代の正確さ、事柄の確かな意味については保証したくてもできないし、ネット上にゴマンとイタリア語・英語の文章が転がっているのでそのへんは各自で適当に検証し補ってほしい。

 さて、

 あまり知っている人は多くないかもしれないが、イタリアでは反新幹線運動〈NO TAV(Treno ad Alta Velocità=高速新幹線)〉がとても有名で、各左派および一部リベラル、また一部宗教家、あるいはポピュリズム政党などの共通の合言葉になっている。
 アルプスをトンネルで貫き、トリノとリヨンを新幹線で結ぶという前時代的な計画がでたのは1990年代。トリノ市中心から約60キロ離れた山の中、電車で1時間ほどの場所にあるスーザ渓谷、Venausがそのイタリア側の工事現場だ。小さな町、村々、修道院や教会が点在し、修道院の収入源である栗の木が守られ続けている美しい渓谷。Wikipediaによると、「はっきりといつ始まったかは定かでない」が90年代にはすでに住人らによる反対運動が始まっていた。
 『われわれの友へ』にも書いてあったが、ここの反対運動はとても特殊だ。労組、アナキスト、コミュニスト、ヒッピー、教会関係の人たち、そしてスーザ渓谷の住人が奇妙に同居し、今のところ各グループ間に運動をめぐる大きな亀裂がないようにみえる。

 例を挙げると、毎年夏には巨大な野外フェスティバルが工事現場の真横で行われる。《Alta Felicità》(最高の幸福)と名付けられた反新幹線フェスティバルは3日間続き、子連れ、学生、労働者でごった返す。宿泊するにはテントを持ち込む。99posse、Subsonicaなど来ているアーティストも豪華だ。街ではノンポリの学生の間でもフェスティバルに行くのが流行になっていて、巨大なステージや照明セット、地元の人たちの物販店など見た目は商業主義の野外フェスと変わらない。全部カンパ制か安い値段で入れ、飲め、飯を食えることを除けば。
 そしてこのフェスティバルの開催中、夜間に何人かが徒党を組んで工事現場へ破壊工作に行く。非暴力の抵抗だ。待ち構えている警察は放水や殴打、逮捕で答える。
 ここでは子供連れのキャンプと非暴力直接行動が同時に行われている。地元のおじいさんがチーズを売る横で受付をしているのはトリノのアナーキストたち。コミュニスト学生は労働者と一緒に来ている。誰かが直接行動で逮捕されても、即座に救援行動が組まれる。日本の運動のように、「一部の過激派」がやったことだと逮捕者が運動から非難され、切り捨てられることは今のところない。
 スーザ渓谷の出口にあるサン・ミケーレ修道院へ続く山道で会った犬を連れた老人は、スーザ渓谷の歴史を「権力への抵抗だ」と簡単に説明してくれた。中世から続くスーザ渓谷の修道院の、あらゆる時の政権への土地をめぐる抵抗が、NO TAVの運動の根底にあるという。「この渓谷を選んだのが奴らの失敗だったね」と老人は笑いながらいった。自分たちがデモに参加したことを伝えると「君たちも仲間だったのか!(我々の一人だったのか)」と嬉しそうに握手してくれた。

 左派の強いトリノの近郊ということも手伝ってか、今やNO TAV運動は小さな谷の問題を飛び越えて、全イタリア、そしてフランスの問題になっている。NO TAVは日本でいう三里塚のような、辺野古・高江のような存在だということもできるかもしれない。鉄道建設予定地の土地をみなで買い取り地主になる、日本でいう「一坪地主」のような作戦も取られているなど日本の運動との共通点もある。また、NO TAV側からの要請で、日本とイタリアの人達による平和団体を通じて、祝島の工事妨害損害賠償の和解決着の顛末がイタリア語に翻訳されるなど、NO TAVは日本の反開発運動との接点もある(参考:“Movimento contro la costruzione della Centrale Nucleare di Kaminoseki”「TomoAmici 朋・アミーチ」2016/10/11)。
 イタリア中のあらゆる街の壁に、小さな村の塀に「NO TAV」の落書きを見ることができる。何もない山間部を数万人が歩くデモには南部イタリアからも送迎のバスが出て、学生は電車で乗り継いでやってくる。デモ隊をスーザ渓谷にある自治体の旗が立てられた村役場のトラックが先導する。労組や政党の旗に加えて各地域の開発の問題を訴える旗も出ていて、近年ではアドリア海の石油掘削反対〈NO TRIV〉、アゼルバイジャンと南イタリア・プーリア州をつなぐパイプライン反対〈NO TAP〉、シチリア島での米軍による衛星通信システム建設反対〈NO MUOS〉などの開発反対運動もはるばるデモに参加しに来ている。彼らはNO TAV運動に学ぼうと連帯にやってきたようにも見える。

 この前家に水道工事に来たおっちゃんが「この家にはNO TAVの横断幕がないから、右翼学生のシェアハウスに来たのかと思ったよ」と冗談を飛ばすほど、トリノのほぼすべての友達の家、特に若者のシェアハウスなどにはNO TAVのバナーが貼ってあるか、ステッカーがある。〈Dynamo Dora〉というトリノの「人民」ラグビーチームのTシャツはスクラムを組んだ人々が、新幹線を止めているというデザインだ。夏以外にもいろんなイベント(直近にやったのはハッカーミーティング、自然観察会、民家の壁へ壁画を書くイベントなど多様すぎてなにが行われているのかすべて把握しきれないほど)がVenausの団結キャンプ場で行われていて、テントを背負って週末スーザにキャンプに行くのはトリノの「オルタナティブ」な連中のトレンド化している。若い活動家やヒッピーの中には、スーザ渓谷に移住して生活し始めた人も多くいる。
 街では世界宗教者平和会議のような団体ですらバルコニーにNO TAVの旗を出し、五つ星運動の代表のようなポピュリストもスーザにいったことを自慢げにブログに書くほどだ。

 この運動の盛り上がりは、現在も反対する農民や学生、労働者に対する強烈な弾圧がつづき、最近では卒論にこの運動を取り上げただけで逮捕勾留された事件が起こっているという事実を感じさせないほどだ。はっきりいって田舎の、アルプス山間の新幹線反対運動がなぜここまで大きく、イタリアの国政に影響を及ぼすところまでいったのか、なぜ各々の主張も政治スタンスも違う人々がそれぞれ好き勝手な方法でNO TAV運動に携わることが可能なのか、自分にはまだまだわからないところがたくさんある。拙いイタリア語で見聞きしたことなのでこの文章には間違っている点も多いかもしれないが、とにかくNO TAV運動には、学ぶというか、考えるべきことが沢山あると思う。誰か真面目に研究したい人がいればぜひこちらに来ることを強くおすすめします。

 写真とかは以下のウェブサイトで!
 http://www.notav.info/

なぜアートはカラフルでなければいけないのか――西成特区構想とアートプロジェクト批判

中村 葉子(映像文化研究/中崎町ドキュメンタリースペース所属)

「灰色の街」に彩りを
 大阪南部の天王寺、新世界界隈は梅田の再開発に象徴される商業施設・高級マンションの乱立に追随して観光化、都市開発が歯止めなく行われている。十年前に比べると街並みは大きく変容を遂げ、残すはその周辺地域、特に行政や民間が開発に着手するのが難しい、釜ヶ崎(あいりん地域)に対してである。この小論ではこの地域に昨今流入してきている「アート」についてそれが都市再開発の流れの中でどのような役割を果たすのかを検討するものである。特に西成特区構想都におけるアートプロジェクトについて取り上げる。ここでいう「アートプロジェクト」は行政の公的支援ののもとで行われるものであり、特に一九九〇年代以降、過疎地や離島、貧困地域における地域活性化のための観光誘致、社会的マイノリティのエンパワメントの名の下で実施されてきた。そのようなアートプロジェクトが釜ヶ崎に移植され始めたとき、どのような問題が孕まれているのか。以下では、大きくわけて次の2点に絞って言及していきたい。

  1. アートが否定する都市の風景。
  2. アートプロジェクトは行政の都市再開発と連携することで「貧乏人」は追い出され「普通の町」へと作り変えていく。

 まず、1点目について、最近釜ヶ崎のメイン通りに現れたアートの事例から考えてみよう。これは去年からスタートした民間主導の「釜ヶ崎グラフィティアート」である。このプロジェクトはその名も「灰色の街に色彩の力を!」をスローガンに日本国内外のグラフィティアーティストが空き店舗のシャッターや老朽化した家の壁にグラフィティを描くものである。ある店主はこの絵のおかげで店先には立小便がなくなり、「迷惑行為の抑止効果」になっていると語る。そして老朽化した空家や荒廃していく街並みを再生させる、元気な街づくりにアートが貢献するそうだ。彼らの目には、釜ヶ崎は「灰色の街」、つまり高齢者が多くそこには活力がないものとして映っており、グラフィティという鮮やかな色を持ち込めば観光客が増えて街は活性化されると考えている。しかし、このような視点には、それまでに堆積してきた釜ヶ崎の都市の風景が全く無視されているのだ。いまも街を歩けば今も南海電車高架下に露店があり、古着、テレビ、道具類、海賊版DVD、賞味期限ぎれの菓子パン、真っ赤な服を着た朝鮮人の輸入タバコ屋がある。そして、一見ゴミであるが、リサイクルされてわずかな稼ぎになる、コタツ、箪笥、食器、タイヤ、導線、布団、ネジなどあらゆる物であふれている。それら無秩序な色彩とでもいえるものは、取り締まりの対象になる色だ。そしてさらに目を凝らして街を見れば、奥深くに様々な色が隠れている。夏祭りの慰霊祭は月明かりに照らされた鎮魂の青、暴動の火柱は奇声、歓声とともに真っ赤に燃えたぎるとともに、白と黒の陰影を鮮烈なものにしていった。
 つまり、ここにあるのは「色彩」対「灰色」の対立ではなく、一方の色彩の体制のみが称揚されるということなのだ。言い換えれば都市的なるものの色彩がショッピングモールやコンビニなどの等質空間が称揚する漂白された色彩によって淘汰されるということだ。そして、こうしたアートが帯びる色彩感覚は単にアートの文脈でのみ捉えられるべきものではない。それは民間、警察、行政、NPO、大学、住民が一体となって都市再開発のためのイメージの戦略として大きく展開されているものである。
 続けて、他のアートプロジェクトについてもいくつか挙げてみよう。二〇〇三年から大阪市の文化振興事業として始まった「Breaker Project」がある。市の文化事業として初期段階から取り組まれてきたもので、毎年テーマを変えながら長期的に行われている。その二〇〇八年のプロジェクトのテーマは「絶滅危惧・風景」である。プロジェクトのメンバーである雨森信によると、この年はアート作品を通じて失われつつある昔ながらの街の風景を再考するものであるという。そう語る反面、「絶滅危惧」という言葉を聞くと珍獣を見る奇異なまなざしを連想させる。まるで見世物を展示するような響きさえ持つ。実際、登場したアート作品は空き地に巨大なオモチャの恐竜が登場した。しかしこの場所は、当時住人や野宿する人々を締め出す柵で覆われた空き地であったし、今も開閉時間が厳しく管理された公園なのである。それは突如表れたオブジェであり、この地域でアートを展示する意味や場所性と関係なくとってつけられたような印象を持つものであった(Ⅰ)。
 このようにアートが街の風景に介入してくるとき、あまりに無批判すぎると思ったのは、次に見る「おおさかカンバス推進事業」で登場した「カンシカメラメカシ」である。文字通り監視カメラを玩具や造花などで可愛らしく「粧かす」のだ(Ⅱ)。こうしたアートは、人々を四六時中監視する状況への批判ではなく現状肯定の範疇を抜け出ないものである。当のアーティストによればカメラを目立つ形にして問題を可視化するという。けれどもこの作品にはカメラの抑圧性、不気味さなど一切無く、ただカメラと戯れているだけである。要するにここにはアートがもつ社会に対する批評性が欠落していると同時に、公的支援を受けることで、表現行為が限定的で、且つ無害なものになっているということである。そして今後ますますアートは無害化され、地域活性の為の道具に成り下がっていこうとしている。その極みとして「西成アート回廊プロジェクト」がある。これは、西成特区構想有識者の松村嘉久(阪南大学国際観光学部教員)と地元出身のラッパー「SINGO☆西成」によって進められているもので、釜ヶ崎を南北に走る南海電車高架下にグラフィティを描き、それをカメラで常時見張りながら観光客が周遊できる回廊を作るというものだ。「SHINGO☆西成」といえば釜ヶ崎出身で、かつてホルモン屋の前の壁に「今に見とけよ」と落書き(グラフィティ)をした人でもある。そこには貧困・差別といった現状に対する鬱屈した感情が少なからずこめられていると感じたものだが、いまやグラフィティアートは照明とカメラに見守られる中で、街の安全と美化に奉仕するようになったのだ。ただ、そうしたアートに対して、ある人は魅力のないものはそのうち消えるので放って置けばいいというかもしれないし、その立場性に明確に決別するアーティストも多くいるだろう。けれどもアートが自らの立場を検討せずに「自立性」を失ってくると、それは他者の「自立」をも阻害するものとしてあらわれる。そのためただアートと割り切って無視しえない次元にきているのだ。
 以下に見るような西成特区構想におけるアートプロジェクトはまさにそうした側面が強い。ここではアートが社会貢献の名目で日雇い労働者や生活保護受給者の排除ではなく、社会的つながりの創出をうたうものである。端的にいうとアートはこれまで行政が主導してきた「社会包摂」の役割を担うものとして捉えられている(Ⅲ)。しかし一見聞こえのいい文句と裏腹に、次のような側面は見過ごされてはならない。①釜ヶ崎の住人に付与される「ネガティブ」キャンペーン、②アートによる「ポジティブ」な倫理的規範の押し付けがそこに垣間みられる。そしてアートによる諸々のプログラムは釜ヶ崎を周辺の観光地と変わらぬ「普通の街」へと作り変えようとしているのだ。

西成特区構想とコミュニティアート
 以下では社会包摂型アートについて述べていくが、ひとまずアートの文脈と関係する西成特区構想のキー概念について触れておこう。橋本前市長、松井市長が西成特区構想は、生活保護、治安問題、教育・子育て支援、住宅開発など多岐にわたる。しかし、そのなかでもイメージアップ戦略における釜ヶ崎のイメージ「怖い、汚い」を払拭するのに躍起になっている。そのようなネガティブな要素としてくくられるものを排除すべく使われる言葉が人口の平均化である(若年層、子育て世帯の呼び込み)。特に特別顧問の鈴木亘の発言は高齢者をスムーズに「退出させる」ことで経済活性を叫び(Ⅳ)、ほかの有識者も同様の論調で、釜ヶ崎は「高齢化」、「人口減少」によって衰退化していくので、新たな人口を呼び込む住宅開発、観光資源の発掘が緊急に必要であるという。しかし、これはあたかもカラフルな人々の顔ぶれを謳っているようで、軽薄な色彩概念と同様にそこに生活する人びとにとっての色彩の豊かさ=生活の豊かさを考慮するものではないのだ。それゆえ、これまで「寄せ場」が担ってきた流動する下層労働者の受け皿となる街は殆ど議論に挙がらない。(その一方で現状としては、警察と行政による野宿者排除と露天の撤去が激しさを増している(Ⅴ)。有識者らが想定するものはあいりん労働福祉センターの寄せ場機能の解体、移設と、それに代わるショッピングモール、マンション、屋台村構想など、いわゆる「ジェントリフィケーションの適用」(鈴木亘の発言)を念頭においた突飛な意見ばかりなのだ(Ⅵ)。今後、注視すべきはこのような「高齢化」「過疎化」の言葉によるレトリックであり、それは釜ヶ崎に限らずあらゆる地域の街づくりにも導入されていくだろう。
 ふたたびアートの文脈に話をもどそう。西成特区構想の中でのアートプロジェクトは「コミュニティアート」と呼ばれる。ここでいうコミュニティアートは、釜ヶ崎に限ったことではなく、同じ日雇の街である横浜の寿町でもすでに導入さている。そこではアートの様々なプログラムに参加することで、自らの能力を発見し生き甲斐が生まれ、他者とのかかわりによって豊かな生活をはぐくむものとして語られる。しかし、実際アートが入り込むことで住人にとって本当に幸せが持ち込まれるのか、そこにはすでに豊かさや幸せがありアートは逆にそれらを阻害するものにならないかという議論もなされている(KOTOBUKIクリエイティブアクションの項目を参照(Ⅶ)。その点を踏まえたうえで釜ヶ崎におけるコミュニティアートもまた現行の人の生活にどのように関わってきているのだろうか。
 釜ヶ崎も同様、表現活動を通じて住民をエンパワメントしていくケアーの側面がある。またプロジェクトで生まれた作品や住民自身(語り部)を「地域資源」と呼び、経済活性化に寄与するものとして捉えている。先述した「Breaker Project」の雨森信、アートNPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)の運営に携わる上田伽奈代は二〇〇三年からフェスティバルゲートで活動を開始し、二〇〇八年から釜ヶ崎内で四つの拠点(インフォショップ・カフェ、メディアセンターなどを運営)で活動を行っている。釜ヶ崎のアート系の活動ではよく知られている団体だ。そして先にみた「アート回廊」を計画中の松村嘉久を含めたこの三者が特区構想の会議に呼ばれコミュニティアートの方針を提示している。これはYoutubeの動画サイトで詳しく見ることができる(「第十回西成特区構想有識者座談会」)。ここでの発言をもとにありむら潜(釜ヶ崎のまち再生フォーラム事務局長・西成特区構想有識者)はアートの役割について次のように報告書にまとめている。

  • アートは具体的な社会包摂の手法を持っている
  • つなぐ、新しい人や考え価値に出会う・孤独な人、コミュニケーションが下手な人が多く、表現しあうことで仲間ができる
  • 自己肯定力が高くなり、自傷や攻撃性が低くなり傷ついた心を回復していく
  • 売り言葉に買い言葉といった喧嘩よりもいろんな受け止め方を学ぶ・前向きの生き方に変わる・住民が語り部、案内役となり地域資源を発掘する
  • 仕事が生まれる

 そしてここから連想できることとして、人に優しく、自分にも優しく、お酒は控えめに、暴力はやめましょう、独り言や、独りでフラフラ歩かないようにしましょう、街の美化、安心・安全な街を作っていきましょう、云々。こう見ていくと、アートによる街づくりは、いわゆる一般社会の健康的で文化的な生活/人間へと更生させ、経済活動に組み込こもうとしているということだ。他方で、「ネガティブ」なイメージとして現れる攻撃性、喧嘩などは更生すべき問題として、個人の心理的側面に還元される。ここにあるのはなんと幅の狭い生き方の提示であろうか。あるいは、行政にとって推奨される逸脱のない範囲での「自立」枠組みであり、これまでのケアの領域や、アートの表現の幅さえも狭められているのだ。この地でなされてきた様々な実力行動、社会運動を見れば怒り、暴力、野次、投石が街の歴史を作ってきたにもかかわらず、そうしたエネルギーの噴出をアートを使ってなるだけゆるく、温かく、穏やかなものへと封じ込めようとするのだ。その線においてアートは行政にとって都合よく利用され、取り込まれてしまうのだ。
 また、こうしたアートに見られる更生プログラムは、都市再開発と肩を並べて進められていく。それをよく現わすのは、最近都市政策の新たなキーワードである「レジリエンス」である。この言葉は心理学用語からきており、人が外的なストレスを受けた場合、それを跳ね返すしなやかさ、打たれ強い精神力を指している。先に見たアートはまさにこの「レジリエンス」をアートで強化しようとするものである。そして、西成特区構想有識者で近畿大学建築学部教員の寺川政司は、街づくりにこの概念を援用し、防災も兼ね備えた、多世代が交流するコレクティブタウンを構想中である。そして不動産業界と協力しあい、空き地がマッピングされ、今後投機の対象にされていくのだ。空白のままにできない精神構造は、高齢化、老朽化が街の欠損であり否定されるべきものとして扱われる。他者の内面にまで土足で踏み込み、問題と見なせば治癒し、強迫的に穴を埋めようとする態度。これが人に対しても、空間に対しても行使されようとしているのだ。
 以上、釜ヶ崎で行われているアートプロジェクトと西成特区構想の諸問題について矢継ぎ早に見てきた。最後に西成特区構想に関して補足すると、今年度の「観光振興・地域資源活用」が議題のシンポジウムでは参加した住民からは多くの批判が寄せられている。その一例として、アートに公金を使わないで欲しい、地域の将来について利益誘導の議論に集中し、住まいや医療について議論がない、新今宮の古くからある新聞屋(屋台)が撤去されたが、いろんな人が商売をできる街として多様性を保ってほしい、交流人口を呼び込もうとするとき釜ヶ崎の労働者の人権が守られているか考える必要がある、という意見が寄せられた(Ⅷ)。西成特区構想は二〇一七年度に終了予定だが、地域に住まう人々の観点に立って何度も検討されなければいけないだろう。しかし一方でこの特区構想とかかわりなく街づくりやアートが日常的に形作っていく意識や態度が、より持続的に影響を及ぼしていくのではないかと危惧している。口当たりの良い言葉や、丁寧な態度にこそ内在化されている「政治性」を今後も見逃さないように批判を行っていきたいと思う。


(Ⅰ)恐竜のおもちゃは動物園前一番街の商店街の空き地で行われた、藤浩志による「トイザウルス」。
(Ⅱ)飯島浩二による「カンシカメラメカシ」。
(Ⅲ)「第一〇回 西成特区構想有識者座談会 議事録」の上田假奈代の発言。
(Ⅳ)「西成特区構想テーマ別シンポジウム「観光振興・市域資源活用について」議事録」参照。
(Ⅴ)二〇〇〇年代初頭から二〇一四年までを切り取ってみても天王寺のカラオケ屋台の撤去、露店の撤去、労働者の住民票の消除(選挙権の剥奪)、花園北公園に警察OBの詰所設置計画、街頭犯罪の撲滅を目的とした監視カメラの増設(二〇一三年度予算一億円)、また今年に入って新世界のジャンジャン横丁入口の露店が追い出され、跡地に花壇と柵が設置された。
(Ⅵ)「第二回 西成特区構想有識者座談会 議事録」の寺川政司の発言、また同座談会の配布資料「西成特区構想有識者座談会の今後の議論の進め方について(案)」における鈴木亘の文章を参照。
(Ⅶ)河本一満と会場の参加者との対談「社会×アートプロジェクト 表現活動と社会が抱える課題の接近」、『アートプロジェクト 芸術と共創する社会』熊倉純子監修、二〇一四、水曜社、二三五―二三七頁を参照。
(Ⅷ)「第5回 専門部会(シンポジウム)の会場アンケート結果 2」を参照。

※本稿は『インパクション』195号(特集:ネオリベとサブカル――新自由主義文化から脱却するために)、インパクト出版会、2014年、70-76頁に掲載されたものである。

大都市化するミラノに抗する「反万博の会」(1)――退廃・装飾・品位の暴力

2017/08/31 北川 眞也

 一昨年、ミラノで万国博覧会(Expo Milano 2015)が開催されたことを覚えているだろうか。2015年5月1日から10月31日にかけて催されたそれには、2,000万人以上の人びとが訪れたそうだ。日本のメディアでは、日本館の人気がすごかったという話ばかりだったように記憶している。ちなみに、この万博のテーマは、「地球に食料を、生命にエネルギーを」であった。当初、ミラノ万博は、かつての経済や技術の発展を主題としてきた万博とは異なり、発展の限界についての「グリーン万博」として開催されるべきだという意見も提出されていた。万博会場などの基本計画の作成に関わったステーファノ・ボエーリのような有名建築家も、経済危機における飢餓や貧困、食糧供給の持続性、気候変動の問題などが主題となることを期待していたようだ。そして現在、かれらは言う。「万博は見事に成功した」と。
 しかし、万博は万博である。どれほどクリーンとかグリーンだとか言われようとも、その本質は変わらない。土地を奪うこと、搾取すること、利潤を生み出すこと、階級的支配権力を強化すること、そして万博「以後」に適用されるべき社会統治のメソッドを実験に移すこと。ミラノの活動家ルーカによるなら、ミラノの万博の「内実」をめぐって、あるいは万博が描こうとする都市の姿をめぐって様々な議論がなされようとも、万博は結局「空っぽの箱」にすぎない。それは、すでに進行している都市空間の編成過程、そしてジェントリフィケーションをさらに進行させるための口実なのだ。万博はいわば、そのための好機として既存の支配階級によって利用される。「メガイベント」や「大事業」は、ジェントリフィケーションの過程をさらに加速させる装置として重宝されるのである。それゆえ、「地球に食料を、生命にエネルギーを」などいかなる理念が掲げられようとも、それはただの「装飾」でしかない。
 「装飾」。ミラノ万博の準備段階においても、すでに「装飾」はみられた。2007年10月22日から26日にかけて、パリの国際万博委員会がミラノを訪問した。それは、開催地をめぐって、イズミル(トルコ)と争っていたミラノの審査を行うためであった。この審査にさいして、ミラノではI LAV MILANというキャンペーンが展開された。LAVとは、英語のloveとイタリア語のlavareをあわせたものである。lavareとは「洗う」、「洗濯する」という意味だ。以下、当時の新聞記事の一部抜粋である。

「…ミラノは万博の審査に向けて準備をしている。副市長リッカルド・デ・コラートとともに言うならば、「都市にできるだけ最良の顔つきを与えるべく働こう」。クリーンになる都市、きれいな都市、たとえば、ミラノ中央駅においては、工事現場を「隠す」ために、スカラ座の技術者たちもまた雇われている。かれらは、一種の遠近画法のように、工事現場の足場を覆い隠す緞帳について学んできた人たちだ。加えて、それを照らすライトの位置についても学んできた人たちである。しかし、中央駅の美的かつ人間的「改良」は、清掃とメーキャップのとんでもない計画のただの一章に過ぎない……
 どこを掃除するのか? 今とは別のミラノを創出するのは不可能ではないのか。メーキャップの全般的なオペレーションは、今回の訪問が確実に立ち寄ることになる2つの「レッドゾーン」に集中する。ひとつは、市庁舎周辺の歴史的中心地区と大聖堂のあるエリア、もうひとつは中央駅だ。2つのエリアを隔てる行程にそうかたちで、労働者たちは道路を検査し、すべての生じうる路上のでこぼこを整えなくてはならないだろう。他方、水道と下水設備を管理するミラノ・メトロポリターナ社は、排水溝の網を検査し、それが詰まっているのを掃除せねばならないだろう。10月には雨が降りうる。水たまりも水の氾濫もよい概観ではないのだろう。
 ミラノ環境サービス社は、歩道、路上、広場の掃除に専念しなければならないだろう。様々なグラフィティの消去についてもだ。そしてまた、市では中心部の路上の張り紙・ポスター、植木箱、破損したゴミ箱の調査を交換のために行った。交換されるべき破損物のなかには、中央駅の外にある、ドゥーカ・ダオスタ広場を舗装する庇とブロックも載っている。実際、評価委員の訪問について、モラッティ市長はできるだけ注意深くあるようにと命令を下している。極めて用心深い調査員たちの移動と行程。というのは、それはテレビカメラからは遠いところでなされなくてはならない仕事だからである。
 それはまた、結成されたばかりの「反万博の会」の何らかの異議申し立ての危険を避けたいがためでもあろう。また別の危険はストライキだ。入念なやり方で、派遣団をマルペンサ空港に降り立たせないようにしたのは偶然ではない。マルペンサでは、空港拡張をめぐっていろいろと荒れている。それは、2015年に数百万人の訪問者を迎えようとする都市にとっては説明困難なことなのだろう。リナーテ空港のほうがよいというわけである。おそらくローマに立ち寄ることにもなろうが。他方で、万博会場となるロー-ペーロ(Rho-Pero)のフィエラ(見本市)には、評価員たちをヘリコプターで連れていくこととなる。かれらに将来のパビリオンが建設されるエリアを見せるためだ。しかし、ヘリコプターを用いるのは、フィエラの周辺に開けっぴろげになったままの工事現場の間をジグザグに進んでいくのを避けるためだと思われている……」(La Repubblica紙 2007年10月4日)。

 このオペレーションの目的は、「ルーマニア人のひったくり、麻薬密売人、駅の入り口で野宿している無一文者」などの「問題を起こしそうな人間たち(*1)を遠ざける」こと、ミラノ都市景観を「きれい」にみせることである。ただし、国際万博委員たちの訪問にさいして、あくまでも一時的にこのような装飾がなされているわけではない。むしろそれは、現代のミラノ都市空間、いや各地の都市空間においては恒常的なものとなっている。「装飾」は、昨今のジェントリフィケーションにしばしば伴ってきたイデオロギーでもある。「装飾」をほどこせば、暗い地域、荒れた地域、退廃した地域は、明るい地域に、品のある地域に、落ち着いた地域になると。
 イタリアでは今年に入って、都市に「装飾(decorazione)」、否、「品位(decoro)」を求め、それを維持することを求める政令(移民の排除・追放を強化する内容も含む)が制定された。その影響は恐るべきものがあるが、2017年5月の右派系新聞il Giornaleでは、中央駅近くでなされる移民の自殺が、都市を「退廃(degrado)」させる品のない行為として吊るし上げられていた(つまりこういうことだ。完全に私的に孤独に死んでくれ。自殺からいっさいの社会的・政治的意味を自分で剥奪しなら)。さらに、ホームレスの若者同士の路上セックスが、都市の体面を損なう行為として言及されていた。しまいには、こうした「退廃」をもたらす連中が、ジェントリファイされる品行方正な地区の内側へと入り込んできていることが厳しく批判されていた。路上での飲食、路上で勝手にたむろすること、そして立ち小便。路上の物売り、物乞い、グラフィティ、麻薬の密売。こうした行為・人物は、空間的に不可視とされなければならない。だから、公園などの空間の使用時間、特に夜間の使用時間も制限される。「ゼロ・トレランスから品位へ」。すべてはモラルの問題とされる。ローマの大都市ウェブジン「ディナモプレス(DinamoPress)」上で、「品位」について批判的な議論が積み重ねられつつあるが、要するに、「品位」とは(また「装飾」もか)、階級をめぐる問題なのだ。「品位」は常々、富裕な連中の観点において定義される(*2)。
 最後に、先に引用した新聞記事の最終段落において、何かしら「問題」とされた2つの主体に言及しておこう。一方は、労働者、空港の労働者であり、そのストライキである。ここには、人間、事物、情報のスムーズな流れ、高速の流れ、心地よい流れを妨げることの政治的な意味が、それと知らずにほのめかされているよう思われる。それは、労働者大衆の出会いや寄せ集まり自体が、下手をすれば「品位」がないと罰せられうる状況で、こうした振る舞いがもつ政治的な意味だ(また今度考えたいことである)。
 他方は、「反万博の会(comitato No Expo)」である。反万博の会とは、ミラノが候補地に立候補してから結成された、ミラノとその周辺地域の諸運動からなるゆるやかなネットワーク組織である(2007年7月結成)。ミラノ万博に反対する人びとがいたということは、あまり知られていないかもしれない。実際、「反万博の会」の活動家でもあるルーカは言う。ミラノのような大都市でこうした活動をするのは本当に困難なことだと。万博に反対する政党は当然のように存在しないが、すでに労働、失業、不安定性、土壌や大気の汚染、放置される地域など、様々な問題があるなかで、いまさら万博だからと言って、人びとにその「有害性」を認知してもらうことは難しい。だから、大規模な影響力を発揮することもなかなか困難であると(2013年8月に、筆者がミラノの研究者に反万博の会について話してみたところ、そのような運動があるとは知らない様子だった)。
 けれども、2015年5月1日の万博の初日に、様々な集団によって準備された反万博メーデーデモが行われて、それに5万人ほどが参加したこと、そしてそのときに「反万博の会」とは別に、武装した300人ほどの「ならず者たち(teppisti)」たちが、「すべてを粉砕する」として、都市空間にある無数の事物を破壊した、無数の火を放ったという事実もある。メディアはかれらをブラックブロックという「人びと」の仕業だとした。この「ならず者たち」は、とりわけ数々の銀行を破壊した、そして警官隊と衝突した。「都市ゲリラ」。いつものようにこの表現が用いられた。「連中は民主主義的なデモをだいなしにした」と、左派の運動や知識人からも批判的言明が相次ぐなか(このあたりは別途検討されねばならないが)、ビフォことフランコ・ベラルディはこう言った。たとえば、ギリシャをめぐる問題において露骨に明かされたように、とっくに民主主義は死んでいる。国民投票によって示されたギリシャの人びとの意志ではなく、何より優先されるのは、銀行システム、金融権力による決定、つまり資本主義の論理である。問題となっているは、民主主義でもないし、法権利でもない。それは、生と死以外の何ものでもないと(と同時にビフォは、金融権力はヴァーチャルなアルゴリズムの内部にあるがゆえに、銀行のガラスをいくら破壊しても、金融システムを破壊したことにはならないとも述べている)(*3)。
 それが階級闘争である限り、民主主義の問題を超過する。当初、万博は、シルヴィオ・ベルルスコーニ政権を支えたレティーツィア・モラッティ右派市政によってすすめられた。だが、2011年5月、ミラノでは20年ぶりとなる左派市長、極左政党と呼ばれたかつての「プロレタリア民主主義」(1975年にいくつかの新左翼集団が合流して結党)の一員であったジュリアーノ・ピザピーア市長が誕生した。それは、翌月にひかえた、水の私営化や原発導入の可否をめぐる国民投票へ向けたNOのキャンペーンが盛りあがっていたときでもあった(投票の結果、圧倒的大多数の「反対」によって、それらは導入されなかった。だが、後々、別ルートであっさりと水の私営化はすすめられた)。けれども、先ほどのルーカは言う。ピザピーアだろうが、モラッティだろうが、何にも変わらなかったと。それどころか、ある部分では、左派市政のほうが万博へ向けてより積極的に投資や宣伝を推進したのだと。さて、現在の資本主義のもと、そしてジェントリフィケーションのもとで先鋭化するのは、民主主義や法権利の問題ではない。それは端的に、生きるか、死ぬかである。「退廃」とされた種々の人間たち、「品位」がないとされた無数の人間たちが毎日のように対峙している現実は、生きるか死ぬかである。
 ちょうど先日、2017年8月23日に、ローマでエリトリア人たちが100人ほど、警官隊によって排除された。その数日前に、居住していた建造物(2013年10月から占拠されていた。主にエリトリア、エチオピアの出身者が1,000人ほど住んでいた)から排除され、行き場を失っていたかれらは、すぐ近くの独立広場で野宿をしていた。独立広場は、ローマ中心部のテルミニ駅に程近い場所にある。要するに、地中海で「救助」された後、放置されたこのエリトリア人の男性、女性、子どもたちは、早朝の襲撃によって、再び排除、追放されたのだ。これはほんの一例にすぎない。しかし、ジェントリフィケーションとも関わる現代都市でのこうした排除や立ち退きの暴力が、地中海とその南岸において、移民を封じ込め、大量に殺害し続けている暴力と同様の地平に位置していることが示唆されているように思われるのだ。ここにおいては、もっと明らかだろう。問題は、生きるか死ぬかである。そして、生そのものである。
 こうした状況が迫りくるなかで、「反万博の会」は、結成以来、どのような対抗運動を行ってきたのだろうか。2008年3月にミラノが万博開催地に決定してからも、かれらは支配権力のそれとは異なった目線において、万博と都市についての知識を生産し、それを血肉化しようと試みてきた。東京オリンピックをめぐる状況がすでにとんでもない暴力性をみせている今、ミラノの出来事を、あらためて振り返っておきたい(次回の北川記事へと続く予定)。


*1 ただし別の資料によると、このリストは相当長い。「社会センターの若者、レオンカヴァッロ[社会センター]、コックス18[社会センター]、反ファシスト、ロマ、移民、ゲイ、大聖堂広場にいる金のない[?]ムスリム、ジェンナー通りにいる金のない[?]ムスリム、パドヴァ通りのムスリム、トロリーバスの路線90/91のポルトガル人、公園でお祭り騒ぎをするペルー人、ヴェトラ広場のナイトライフ、ティチネーゼ地区のパンクス、チッタ・ストゥーディでの屋外飲酒、ランブロ公園での屋外飲酒、抵抗するいつもの教授陣たちによって操られた学生…」。Off Topic e Roberto Maggioni, Expopolis: il grande gioco di Milano 2015. Milano: Agenzia X, 2013, p.17.
*2 http://www.dinamopress.it/news/un-deserto-umano-chiamato-decorohttp://www.dinamopress.it/news/il-nemico-della-cittahttp://www.dinamopress.it/news/un-deserto-umano-chiamato-decoro
*3 http://effimera.org/dalla-parte-dei-teppisti-di-franco-berardi-bifo/

ジェントリフィケーション入門(1)地代格差論

2017/08/15 原口 剛

 ジェントリフィケーションは、都心からほど近くの「インナーシティ」と呼ばれる場所に襲いかかります。そこは、昔から安い住居や宿が密集していて、貧しい都市住民がかろうじて住むことのできる場所でした。なぜそのような場所に、ジェントリフィケーションが襲いかかるのでしょうか。資本にとってのメリットは、どこにあるのでしょうか。そのことを理解するためには、ジェントリフィケーションの基本的な理論を知ることが必要です。

 ジェントリフィケーションの理論には、おおきくいってふたつの系があります。ひとつは、「どのような人々が、なぜインナーシティに移り住んでくるのか」に着目するもの。これは「消費サイドの説明」と呼ばれる系です。もうひとつは、「どのような論理がジェントリフィケーションの過程を作動させているのか」を探究するもの。これは、「生産サイドの説明」と呼ばれる系になります。どちらの系の理論も、ジェントリフィケーションを分析するための道具として欠かせません。けれども、「そもそもジェントリフィケーションとは何なのか」を理解するためには、とくに後者の「生産サイドの説明」が重要です。なかでももっとも重要な理論が、「地代格差」と呼ばれる理論なのです。

 まずは、「ジェントリフィケーション」という概念や「地代格差論」という理論が生み出された背景を確認しておきましょう。「ジェントリフィケーション」という用語が生み出されたのは、1964年のことでした。ルース・グラスというイギリスの社会学者が、『ロンドン』という著作のなかでこの言葉を生みだしたのがはじまりです。この著作のなかでグラスは、ロンドンのインナーシティで、これまでにない変化が起きていることを発見しました。上で述べたように、「インナーシティ」とは、都心ちかくに位置する場所です。そこには安価な住居や安宿が密集していて、だからこそ貧しい都市住民の住まいとなってきました。ロンドンだけではありません。どの都市であっても、インナーシティはかならず存在しています。ところがその場所に、新たな居住者、しかも裕福なミドルクラスが次々と住み始めていることに、グラスは気づいたのです。この新しい階級変容の現象に、グラスは「ジェントリフィケーション」という名前を与えたのでした(グラスが「ジェントリ」という言葉を用いたのには、歴史的に深い理由があるのですが、そのことは別の回にあらためて解説したいと思います)。

 1964年にルース・グラスが「ジェントリフィケーション」という言葉を生みだしてから、この新しい現象はすぐさま注目されるようになりました。というのも、この現象はロンドンだけでなく、世界各地のさまざまな都市で起こっていたからです。このような状況のなかで、さまざまな研究者が、「いったい何が起こっているのか」を解明しようと奮闘してきました。上で述べたふたつの系の理論は、そのなかで練られていったものです。そうして1979年、地理学者のニール・スミスが決定的な論文を公表します。その論文こそが、地代格差論(rent gap theory)だったのです。この地代格差論は、いまなおジェントリフィケーションを考えるための、もっとも重要な理論でありつづけています。それは、いったいどのような理論なのでしょうか。とても図式的になってしまいますが、その内容をおおまかに説明してみましょう。なお、1979年にニール・スミスが提起した「地代格差論」は、アップデートされて『ジェントリフィケーションと報復都市』の第3章に所収されています。もっと詳しく知りたいと思った方は、ぜひ手に取って読んでみてください。

 ジェントリフィケーションや地代格差論を理解するためには、そもそもなぜインナーシティが生み出されたのか、というところから考えなくてはなりません。ここで、図Aをみてください。これは、アメリカのシカゴを例にした図です。タテ軸は「地価」を、ヨコ軸は「都心からの距離」を示しています。つまりこの図は、都心からさまざまな距離をもつ、それぞれの場所の地価が、歴史的にどのように変化してきたのかを示したものです。まずは1873年と1892年を比較してみてください。都心の地価がぐんぐん上昇していって、それに引っ張られるようにまわりの地価も上昇していることがわかります。この頃のシカゴは、急激に都市が工業化していました。都心に企業や工業が集積することで、都心の価値が急上昇していたわけです。さて次に、1892年と1928年を比較してみましょう。すると、地価を示した波のかたちが大きく変化していることに、すぐ気づくと思います。都心はあいかわらず地価が急上昇していますが、都心から離れた外側の場所でも同じく地価が急上昇しています。だから地価の波のかたちは、それまでの山のようなかたちと違って、ふたこぶのかたちをしています。じつはこのとき、新しい都市形成の過程が始まっています。つまり、郊外化という過程です。急激に都市化した当時のシカゴでは、資本主義の矛盾が爆発し、街は工場のばい煙で覆い尽くされていました。なにより、新たに流れ入った労働者たちが階級闘争を繰り広げる舞台となっていました。怒りと闘争心に満ちた労働者たちの群れに直面した富裕層は、それまでのように都心に住まうことを嫌い、心安らぐ地を求めました。そうして、郊外にじぶんたちの住宅地を求めるようになったのです(だからアメリカでは、郊外化は「ホワイト・フライト(白人の逃避)」とも呼ばれます)。それとともに、郊外には莫大な開発資本がこぞって投下されていきます。山を崩し、森を拓き、富裕層に向けた住宅地である「ブルジョワ・ユートピア」が開発されていったのです。

20170815ht-A図A:『ジェントリフィケーションと報復都市』103頁より

 さて、もういちど図Aに目を戻してください。都心からほど近い場所では、真逆のことが起っていることが分かります。都心と郊外の地価がどんどん上昇していくのに反して、この場所では地価が下落していくのです。この「地価の谷間」の場所が、インナーシティの地にあたります。この地では、いったいなにが起こっていたのでしょうか。どの時代でも不動産開発資本は、利潤のあがる場所を探し求めようとします。この時代は郊外こそが、高い利潤を約束する場所でした。なにしろ、それまで山や森や野原として放置されていた場所が一気に価値ある場所になったわけですから、資本はいっせいに群がります。かたやインナーシティは、より多くの利潤を追い求める不動産開発資本にとって、うまみのある場所ではなくなっています。だから、郊外につぎつぎと資本が投下され開発されていくその裏側で、インナーシティの建物や住宅からは資本が引き揚げられていきました。いわば資本から見放され、放置されたのです。修繕もろくに行なわれず、建物は老朽化する一方。見放されていますから、家賃は安い。そうして、貧しい労働者階級やマイノリティがかろうじて住むことのできる場所になったのです。こうしてみると、郊外の開発とインナーシティの形成とは、表裏一体の過程だったことがわかります(このことは、「不均等発展」という重大なテーマにかかわるのですが、それについては回をあらためたいと思います)。

 ここまで長々と都市形成の過程について述べてきました。もしかしたら遠回りに感じたかもしれません。けれどもジェントリフィケーションを考えるためには、たんに現在をみるだけでなく、それ以前の時代になにが起こってきたのかを考えることが欠かせません。都心/インナーシティ/郊外というように、時代の変遷のなかで都市が階級的に分割され、分離されてきた事実があるからこそ、ジェントリフィケーションは引き起こされるものなのです。いま、都市を見渡してみてみましょう。郊外はもう、あらかた開発しつくされてしまっています。ここまでくると、これ以上開発してもたいした利潤はあがらないし、不動産開発資本にとってたいした魅力はありません。では、インナーシティはどうでしょうか。ここで、図Bをみてください。これは先ほどの図Aとは違って、インナーシティの場所だけを切り取り、取り上げた図です。タテ軸には「金額」が、ヨコ軸には「(建設時から経過した)時間」が描かれています。そして、四つの要素(「価格」「住宅の価値」「資本還元された地代」「潜勢的地代」)の変化が描かれています。ちなみに「価格」というのは、「住宅の価値」と「資本還元された地代」を足しあわせたものです。多くの人は月々家賃を支払っていると思いますが(家賃も地代と同じく「レント(rent)」です)、この家賃には、家屋への支払いと土地への支払いが、どちらも含まれているのです。図Bからみてわかるとおり、新たに建てられた住宅の価格は、時を経るとともに下落していきます。

20170815ht-B
図B:『ジェントリフィケーションと報復都市』111頁より

 しかしジェントリフィケーションにとってなにより根本的なのは、じつは、「資本還元された地代」と「潜勢的地代」との関係なのです。「資本還元された地代」とはややこしい表現ですが、要するに現状の地代のことです。これに対して「潜勢的地代」とは、もしその土地をいまとは違う、別のかたちで利用したらならひょっとして得られるかもしれない、可能的な地代を指します。ここで思い起こしてほしいのですが、インナーシティでは住宅や建物が資本に見放され、放置されるという状態がつづいてきました。家賃や地代が安いからこそ、そこは貧しい労働者階級やマイノリティが住み続けることができたのです。このような状況が長らくつづくなかで「資本還元された地代」は、時間がたつとともに低下していきます。しかし、それとは反比例するように、「潜勢的地代」はどんどん高くなっていきます。要するにインナーシティでは、地代の側面からみれば、長きにわたり資本が引き揚げられてきたがために、「資本還元された地代」が「潜勢的地代」からかけ離れていくという事態が起きたのです。このふたつの地代のあいだの格差(ギャップ)が、地代格差と呼ばれるものです。

 この地代格差こそ、ジェントリフィケーションを駆動させる根本の原理です。地代格差が一定の大きさにまで広がったとき、そこにジェントリフィケーションの可能性が生まれます。上で述べたように、郊外は開発しつくされてしまって、もう利潤のうまみは消え失せてしまいました。そこで目ざとい不動産開発資本は、インナーシティに目を向け始めます。なにしろ、地代のありよう(資本還元された地代)は、他の場所に比べて極端に低い。しかも、別様に開発したら得られるだろう地代のポテンシャル(潜勢的地代)は、十分すぎるほど高いのですから。もしその場所をうまく開発せしめたならば――とおい昔に郊外がそうであったように――莫大な利潤をあげることができます。かくしてインナーシティは、ジェントリフィケーションの標的とされるのです。「都市再生」や「地域再生」を掲げたプログラムには、「好立地なのに地価が安い」とか、「開発により大きな価値を生む可能性がある」とか、そのような言葉が並べられることがよくあります。それらの言葉が指し示しているのは、まさに「地代格差」であり、ジェントリフィケーションなのです。

 このように捉えると、ジェントリフィケーションとはけっして「自然な過程」ではないことがわかります。それは、深く資本主義の力学に根差した過程なのです。郊外化の時代にあって資本主義は、「地代の谷間」であるインナーシティを生みだし、貧しい労働者階級やマイノリティを封じ込めました。ひるがえって現代では、みずからが生み出した「地代の谷間」へと開発の矛先を向け、そこから利潤を生み出そうとするのです。貧しい労働者階級やマイノリティは、かつて資本主義によってインナーシティへと封じ込められて、こんどはそのインナーシティから追い払われようとしています。この点からしても、ジェントリフィケーションが「階級」への問いから切り離せないことは、あきらかでしょう。

 さて、ここでは「地代格差論とはなにか」をおおまかに解説してみました。簡略化した解説ではありますが、要点は理解してもらえたのではないかと思います。ただし、ここで紹介したのは、あくまで地代格差論の図式的な説明にすぎません。これだけみるとジェントリフィケーションは、あたかも自動的に進んでいく経済的な過程であるように思われるかもしれません。けれどもじっさいには、ジェントリフィケーションとは、政治的な過程でもあります。そこには、立ち退きのような暴力や、労働者やマイノリティの闘争といった、さまざまな要素が深くかかわっています。それらのテーマについては、こんご回を重ねるなかで書いていきたいと思います。

公園にスターバックスがやってきた

2017/07/11 大阪城公園よろず相談(も)

yorozu

 いつものように大阪城公園の夜回りに行くと、ちょうどJO-TERRACE OSAKAの開業初日だった。公園の商業化という何とも憂鬱な事態である。市民の森から大阪城公園駅前の広場にぬけると、フェンスが取り払われ、きらびやかな街が現れた。暗がりから出たとたん、自転車を転がして歩いているこっちが場違いな状況に陥ってしまう。都市公園は、様々な人に開かれた場所であり、家を持たない人が宿りにくる木陰でもある。けれども、そういう都市公園が持っている一側面は顧みられることなく、公園行政は、見通しのよい公園にすると言っては木を切り倒し、古くなったと言っては公園内から屋根をなくしてしまった。そして、代わりにスターバックスカフェがやってきた。スタバは店員だけでなく客も一緒に連れてくる。公園でくつろぐ「市民」にコーヒーを売りにきたわけではない。彼らの世界のための席を設けたのだ。どうです、今度は都市公園を風景にコーヒーでも、と。これがジェントリフィケーションというやつだ。ところで、梅雨だ。元気なのはナメクジだ。ナメクジに塩をかけると水分が抜けてナメクジが縮むのは、子どもでも知っている。では大人に問題。公園に塩をかけるとどうなるか? 答え。資本に公共性が吸い取られ、公園もみるみる内に縮むのである。

*出典:『人民新聞』第1620号(2017年7月11日発行)http://jimmin.com/2017/07/11/post-3625/
*画像:「森ノ宮再開発散歩」(出典:『あしたのロジョー』第4号〔2015年5月1日発行〕http://park.geocities.jp/asitanorojo/rojo_index.htm

「北」からの移動者たち――「国民」をめぐる境界と排除

2017/07/15 くいしんぼう

 2016年の年末から2017年の初春にかけて毎週ロウソク集会に集まった人びとによってソウル中心部の路上が埋め尽くされ、朴槿恵前大統領の不支持率が90パーセントを越え、大統領弾劾の手続きが順を追って進められていっている状況のなかで、それでもなお大極旗を掲げながら朴槿恵前大統領を擁護し、ロウソク集会側を「反米、親北、共産主義の手先」と批判する人たちがいた。キリスト教保守主義者極右主義者、朴槿恵前大統領の父である朴正煕大統領時期のノスタルジーに浸っている人たちなどを中心にした、比較的年齢の高い層の人びとによって構成されているこの集団のなかに「脱北者」(以下、「」省略)と呼ばれる人たちも何名かいた。

 大韓民国憲法第三条では大韓民国が朝鮮半島で唯一の合法性を持った国家であり、国家の領土は朝鮮半島全体に及ぶと規定されている。この条項に従えば、北朝鮮地域から脱出して韓国に来た人たちは、北朝鮮政府によって不法に抑留された国民ということになる。実際、彼らが韓国に到着した際に提供される法的地位は、彼らが大韓民国国民であることを前提としている。ところが彼らは、他の人たちとはべつの名前で呼ばれる。その名が脱北者である。つまり彼らは法的には国民の地位にありながら、あくまで北から来た「異国人」として認識されているのである。1990年代後半から徐々にその数が増えはじめた脱北者たちは、どのような背景で危険をおかしてまで北朝鮮地域を離れ、どのような経路を通って韓国にたどり着き、そして韓国社会でどのように生きているのか。
 脱北者増加の背景には、1990年代の北朝鮮の経済危機が一つの要因としてある。1995年、北朝鮮地域は大洪水をはじめとする自然災害に見舞われ、1997年には1990年を起点にして約25パーセント以上も穀物生産が減少するなど、深刻な経済危機に陥る。特に北朝鮮地域内の北部山部地域や北東に位置する地域では、輸送経路が災害のせいで断絶し、配給が送られてこないという事態が発生した。こうした事態に対して政府は、「自力更生」や「難苦奮闘の革命精神」などを強調するものの、実質的な対策は講じえない状況にあった。こうした状況のなかで近隣の人々が飢えて死んでいくのを目の当たりにし、ある人たちは北朝鮮を脱出することを選択するようになっていった。
 脱出するにあたって、多くの人が踏む経路は北朝鮮北部に隣接している延辺朝鮮族自治区だった。この地域は、主に朝鮮半島北部の住民による19世紀後半からの間島への移住からはじまり、清朝、中華民国、そして帝国日本による「満州国」を経て、第二次世界大戦後の引き揚げ、国共内戦と中華人民共和国の成立、朝鮮戦争などの過程を経るなかで1952年に成立した朝鮮民族自治区である。北朝鮮と中国間で国境の画定はなされているものの、豆満江や鴨緑江を渡ればすぐに「越境」が可能であるために経済危機以前の時期からすでにこの河を行き来して、自治区の朝鮮族と北朝鮮住民が親戚関係を築いたり、当時経済的に貧しかった朝鮮族がその関係を利用して北朝鮮地域に入って生活必需品を売り、鉱物や健康食品などを買って中国に持ち帰り、経済活動をするという事例も多かったそうである。つまり、正確に言えば、国境線という観点からみたときこれらの地域は分離されているものと認識されるが、この地域で生活している人たちからすれば、言語や人脈、経済活動まで及ぶ一体的な文化地帯をなしており、それを「越境」行為として知覚する必要すらなかっただろう。そして1990年代の経済危機を迎えたときには、中—北間の移動にはすでにこうした文化的蓄積が存在しており、「自力更生」を唱えた北朝鮮政府もそれを黙過し、国境の取り締まりを積極的にしないなどの措置によって実質的に支援したのである。しかし、1990年代に入ってから北朝鮮地域から移動した人たちが、再び北朝鮮地域に帰るのではなく、中国国内に留まったり第三国へ移動するケースが増加する。そうした状況を見た中国政府は、以前なら中国に家族や親戚関係をもつものがいればすぐに発行していた訪問許可書の要件を厳しくするなどの政策を講ずることによって、本格的に国境の管理を強化するようになった。さらに中国内にいる不許可の脱北者の公安警察による取り締まりを強化することによって、朝鮮族と脱北者の間にも「境界」が引かれた。つまり、朝鮮族の人たちに対して脱北者を見つけたら警察に通報しなければならないという意識を持たせることで、朝鮮族と脱北者の間に意識的な「境界」を引いたのである。しかし、それでも脱北者たちは朝鮮族社会と協調的な関係を保っている場合が多い。1992年に中韓の国交が樹立されることによって、それ以降自治区の朝鮮族たちは多く経済移民として韓国へ渡ることになった。朝鮮族の人たちの移民によって空いた場所を埋めているのが脱北者であり、それは特に農村で目立つという。そしてそこに少しの間留まったあと、都市あるいは韓国、あるいは他の国に向かうというケースが多いのである。また、付言しておくべきことは、こうした移動経路のなかで中国内の朝鮮族の教会、あるいは韓人教会が大きな存在としてあるということである。ここで教会は、お金のない脱北者たちにその資金を渡したり、身柄を保護したり、韓国行きの情報を得られる空間として機能しているのである。もちろん教会だけが唯一のルートではなく、他にも多様なルートを通って、脱北者たちは韓国ないし第三国へ到達するということも注意しておく必要がある。
 こうしたルートを通って脱北者たちは、韓国にたどり着く。すでに述べたように、韓国にたどり着いた脱北者の人たちは、法的には国民という地位を提供される。しかし同時に、彼らは本当に脱北してきた人たちなのかを調べる尋問を受けて、「社会適応教育」を受けるために北朝鮮離脱住民定着支援施設ハナ院に入居しなければならない。こうした身元調査と教育の過程で、彼らは約3ヶ月あまりに及んで自分たちが脱北者であることを証明し、北朝鮮の現況や問題点などの情報を提供することによって、自分たちが北朝鮮を脱出しなければならなかった理由を説明し、「北」の体制を批判し、否定することを強いられるのである。また、その他にもハナ院の教育を終えて各地域の賃貸住宅に移り住むときに、その地域のハナセンターと管轄の警察署に自身の居住地を登録しにいかないといけなかったり、住民登録番号に脱北者用のコードを割り当てられることによって、番号を確認すればすぐ脱北者であることがわかるような措置を取られる。このような監視体制のなかで、脱北者は国家に従わなければ「スパイ」にされるのではないかという意識をもつようになるという。実際、国家情報院が北朝鮮に情報を渡したという捏造した情報をもとにし、脱北者を「スパイ」に仕立てあげるという事件も起こっており、それが「つぎはスパイにされるのではないか」という恐怖心を持つようになるのである。
 このように太極旗のもとにいた何名かの脱北者の背後には、幾重にも張り巡らされた監視網と、故郷を否定し大韓民国に従うように強要する力が作動している。彼らは、たえず国家に忠誠を誓っているということを身振りで示すことを要求されており、その限りで「国民」として認められる。太極旗側についた何名かの脱北者の人たちは、なぜ政府を擁護する側に回ったのかという問いに対する究極的な理由はわからない。しかし、彼らをロウソクの方へではなく、太極旗へと向かわせた背景に、「国民」であることの忠誠を証明せよという国家の力学が作動し、その力を敏感に読み取ったがゆえに、政府を擁護する側にまわってしまったという可能性を退けることはできない。そうした意味では、「国民」という装置にはつねに国家への忠誠を要求する論理と排除の論理が内包されていることを純粋な形で再確認させてくれる事例でもある。
 ここでは韓国でのうねりのなかから、よく主題にされるロウソクデモ側ではなく、前政府を擁護する立場にまわった人たちのなかにいた「脱北者」の人たちの姿と、その背後にある文脈を素描しようとしてきた。高秉權氏によるコラム同様、直接にジェントリフィケーションに関係している問題ではないが、主に都市空間で行われた大衆行動のなかに現われていた力学を分節化し、見極めることにつながると思われる。また、日韓共に運動のアイデンティティが「国民」という形象によって立てられる傾向が高まりつつある現在において、そうした呼称がつねに孕んでいる排除の論理を把握するという点においても、議論の幅を広げるのに有用であると思われる。

※本稿を作成するにあたっては、キム・ソンギョン氏の一連の研究(김성경「분단의 마음과 환대의 윤리:’태극기’집회 참가자들과 탈북자를 중심으로)(『민족문화연구 제75호』,2017),「경험되는 북・중 경계지역과 이동경로」(『공간과 사회 제22권 2호』,2014),「분단체제가 만들어낸 ‘이방인’, 탈북자」(『북한학연구 제10권 제1호』2014),「이곳에서 탈북자 사유하기」(『말화활 11호』,2016))、権香淑『移動する朝鮮族』(彩流社,2011)の1、4章、伊藤亜人『北朝鮮人民の生活 脱北者の手記から読み解く実相』(弘文堂,2017)を部分的に,そして『ハンギョレ新聞』2010.11.15 http://japan.hani.co.kr/arti/politics/6449.html、『프레시안』2014.3.14 http://www.pressian.com/news/article.html?no=115413 を参照した。

高秉權「今は帳簿に何かを書く時だ」

 弾劾された朴槿恵に代わる新たな大統領を選出するための選挙結果を受け、2017年5月10日、韓国では革新系の最大政党、「共に民主党」の文在寅(ムン・ジェイン)が大統領に就任した。
 以下のテキストは、高秉權(コ・ビョングォン)氏によって、その数日前に京郷(キョンヒャン)新聞に発表されたものである。直接にジェントリフィケーションにかかわるわけではないが、この大規模な大衆運動は、都市空間を民衆が再掌握することと密接不可分であった。直接行動と選挙、デモクラシーの関係など、わたしたちの課題とも共有するものがあると考え、ここにアップする。
 高秉權氏は、研究者のコミューン、研究空間スユ+ノモ(※1)で長く「酋長」をつとめ、現在はノドゥル夜学(※2)の障害学究理所にて研究員。障害者夜学や刑務所など、社会で疎外されている人たちと学びを共にする「現場人文学」を地道に続けている。訳書に『哲学者と下女』インパクト出版会、2017年(今津有梨訳)がある。[yuri+Q]

(※1)大学という制度の外で研究と日常の間の距離を限りなく縮めようとする実験的空間とでも言えるだろうか。常にさまざまな講義やセミナーが自律的に運営されており、食事や散歩などを共にすることも大切にされている。現在はスユノモ104という空間がある。http://www.nomadist.org/

(※2)軍事独裁政権下で就学の機会を奪われていた重度障害を持った人々を対象にして、韓国で90年代以降あらわれる障害者夜学のうちの一つ。大学入学資格のための授業を中心に、美術や音楽、社会や哲学など幅広い学びを提供するのとならんで、脱施設/自立生活運動、バスや地下鉄の移動権闘争などを活発に行ない、2007年には活動補助制度(介助制度のこと)導入にこぎつけるなど、実際に成果もたくさん上げている。


今は帳簿に何かを書く時だ

高秉權

 数年前、外国の活動家たちに韓国の民主化運動の歴史を紹介することがあった。講演を準備しながら様々な映像資料を年代順に整理して見せた。それこそ吐き気を催させるような事件の連続だ。ところがふと歴史の中のわたしたちの希望と絶望がなんともまずいものだという考えが浮かんだ。情勢の浮き沈みの中で情勢よりも大きく浮き立ちまた情勢より早く挫折することがどれだけ多いことか。もちろん歴史の年表を手にした後世の人間が歴史的事件のうちで絶叫する者の態度を評価することは穏当ではない。1980年「五月の光州」を知る目でその数ヶ月前の「ソウルの春」に対する期待で胸を躍らせた人々を眺めることは心苦しいが、だからと言って未来に対する彼らの無知を責めることはできない。これから起きることをすでに起きたこととして見ることができる存在は神か後世の歴史家だけだ。

 最近の出来事を見るだけでもそうだ。たった一年前を思い出してみても、与党が総選挙で改憲ラインを確保するだろうという話題が出回ったものだ。けれども今はどうか。朴槿恵前大統領は監獄に入り、もう少し経てば新たな大統領が誕生する。万が一未来を知っていたなら、わたしたちが虚しい希望と不必要な絶望に陥ることはなかっただろう。だが未来に対する無知はわたしたちが決して取り除くことができないものではない。

 わたしが話をしてみたいのはその反対の方向だ。つまり、無知のために生まれる希望と絶望ではなく、希望と絶望のために生まれる無知についてだ。そしてこの無知はこれから起こることについてではなく、すでに起きてしまったか、今まさに起きていることに対するものだ。希望と絶望に陥っていると、過去をまともに記憶せず現在を注意深く眺めることもない。そうして未来についても浅はかな判断を下してしまう。そんな風に現実を回避するのだ。同じ人に対して相反する二つの感情が交差するのはそんな理由からでもある。希望に陶酔した人であるほど、絶望に対して弱く、絶望が大きいほど虚しい希望を見つけ出そうとするのが決まりだ。

 スタンダールは哲学者は銀行家に通じるところがあると語った。優れた哲学者になるためには銀行家のように幻想なしに実情を冷静に観察せねばならないということだ。わたしはこのことが優れた民主主義者になるためにも必要だと思う。金に対する俗物的執着は嫌いだが、金を貸してやった場所を正確に書き留めておき、感情に流されて自分の利益を損なうことがない貸付屋には学ぶべき部分がある。

 わたしだけなのかもしれないが、わずか数ヶ月前であるにもかかわらず、ろうそく集会があったのはもうはるかに昔のことのように感じられる。「これが国か」という絶望は絶望のまま残り、「政権交代」という希望はただ浮き立っている感情であるのみではないのか。帳簿に書き留めておいたものがないのだからこうして利子は言うまでもなく現金までも貸し倒れになってしまった。だから今でも帳簿に書き入れねばならないのではないかと思う。この数年間書き置いて来たものがないなら、この数ヶ月の間のことであっても思い出せるものを書き留めておく必要がある。わたしたちが耐え難かったのが何なのか、わたしたちがどうやって闘ったのか、その時の怒りも、闘志も、決心も、笑いもすべて書き留めて置かねばならない。そうしてこそ新しい執権者と民主主義の貸借対照表を検討することができる。

 現在は民主主義運動の視野が選挙運動へと極度に狭まっている時期だ。自分が信じる候補を当選させることが韓国社会を民主化させる道だという信念が一番強い時であり、候補たちもまた自らの記憶と意志をみんなのものとして確信している時だ。わたしたちの支配者になった衝動がわたしたちの経験に対する解釈の全権を得るように、新たな執権者はろうそく集会の原因と過程に対する記憶の相当部分を掌握することになるだろう。帳簿になければ彼はわたしたちに利子を払うどころか借りを返せという督促状まで突きつけてくるかもしれない。だから勝利者に完全な信を与えるのは謹まねばならず、彼を督促する仕事もなまけずに行わねばならない。民主主義に関する限り、指導者として選出された者は債務者であるという事実を債権者が忘れてはならない。わたしたちはいつでも勝利に陶酔した彼の目を覚ます冷や水の一杯を準備して置かねばならない。

 だからわたしも帳簿にひとつ書き記した。過ぎた4月21日、「障害者差別撤廃の日」に行進に臨んだわたしたちは大邱市立希望園でおきたおぞましい事件に抗議して大統領候補者たちの党舎へと赴いた。希望園は大邱市が設立した収容施設としてカトリック大邱大教区が委託運営をしていた場所だ。ここではこの6年の間に実に309人もの収容者が死亡し、その少なくとも29人が国家人権委員会による調査結果、「疑問死」というものだった。どうしたらこんなおぞましい事件を起こしうるのかと運営者にだけ悪態をつく人々は、障害者を隔離して収容する施設そのものがどれだけ恐ろしいものであるのかをよく知らない人々だ。有力大統領候補たちの陣営の人士と会ったわたしたちは公約集に「大邱希望園障害者収容施設即刻閉鎖」と「障害者脱施設政策促進」を記すことを要求した。ところがおとといになって大邱市から希望園の障害者収容施設を来年までには閉鎖するという発表があった。一旦、利子の一部は受け取ったというわけだ。

 これまでの6年間に309名もの人々が死んでいった希望園のホームページには「生活人へ「新たな生」の目標を志向することができる多様なプログラムの上にサービスの差別性を加えて感動を創出」するために努力するという文句が記されている。言葉と現実の格差というのがまさにこのことだ。だから、候補たちの帳簿に記された言葉だけを見て浮かれてはいけない。今は冷静に自分の帳簿に何かを書き記す時だ。(訳:yuri)

※ ここで一括して「帳簿」と訳した言葉は原文では「공책(ノート)」「일수공책(日収ノート)」と記されるもので、市場などで小規模で貸付をしながら生計を立てている人が日毎につけ、持ち運ぶノート、とのことでした。現代では貸借対照表(バランスシート)に近いものですが、日毎かつ元資本も少額でその規模で大きな違いがあるのに加えこの職には一般にあまり良いイメージがないそうです。おそらくは近代に入って、日帝時代に生まれたものだろうと言うことなのですが、その起源ははっきりとは分かりません。

ロンドンの若きラテンアメリカ系フェミニストは「ジェントリフィケーションに抵抗せよ!」と叫ぶ

■ロンドンの若きラテンアメリカ系フェミニストは「ジェントリフィケーションに抵抗せよ!」と叫ぶ [2017/07/01 村上潔]

 2017年4月8日(土)午後、サンバのリズムとカラフルな衣装、情熱的なダンスがロンドンの一角を彩った。
 ロンドン北部の特別区、ハーリンゲイ区のワーズ・コーナーに位置する〈セブン・シスターズ・インドア・マーケット〉。
 その前面のスペースを使って、《Salsa & Samba Shutdown: Save Latin Village & Wards Corner》と題したイベントが開催された。
 このマーケットには、ラテンアメリカ系のショップ・カフェ・レストラン・理髪店などが入っていて、ロンドン北部におけるラテンアメリカ系ビジネスの拠点となっている(イギリス国内でも2番目の規模を誇る)。親しみ深く個性的、ちょっとカオスで刺激的なテナントの数々は、ロンドンのなかでもひときわ魅力を放っている。またそれだけでなく、ここはラテン系住人コミュニティの中心地であり、非ラテン系の人に対して文化的多様性を提供する場所であり、そして近年急速に進んでいる公有地の私有化や「都市再生(regeneration)」を逃れている場所でもある。
 しかし、この土地はけっして平穏な状況にあるわけではない。実はこのマーケットの店主たちは、ハーリンゲイ区ならびにデベロッパーの〈グレーンジャー〉社と闘っているのだ。そう、つまり、この土地を「再開発(redevelop)」しようとしている者たちと。
 区の再開発計画が始動したのが2004年。以後、このコミュニティを守る闘いはずっと続けられてきた。2007年に〈ワーズ・コーナー・コミュニティ連合〉が結成され、2008年にはヒューマン・チェーンがワーズ・コーナーを取り囲んだ。今回の4月8日のイベントでは、それの歴史的な象徴的瞬間を再現すべく、ヒューマン・チェーンが再び実施された。
 このイベントは、サルサ・サンバ・ダンスを通じてラテン文化と多様性を称揚し、また公共空間を占拠することで、このコミュニティが直面しているジェントリフィケーションの問題を広く喚起することを目的として、〈ラテン・コーナー・UK〉と〈ロンドン・ラティンクス〉が共同で主催したものである。前者は、マーケット内のラテン・ヴィレッジ(El Pueblito Paisa)に関することを広報する社会的企業。後者は、若いラテン・アメリカ系アクティヴィストからなる草の根のフェミニスト・グループである。
 このうち、特に〈ロンドン・ラティンクス〉が主体となって発信しているメッセージは、非常に意義深いものがある。彼女たちが当日イベントで読み上げたアピール文が翌日フェイスブックで公開されていたのだが、そこでは、

ラテン・ヴィレッジを守れ
ワーズ・コーナーを守れ
私たちラティンクスのセーフ・スペースを守れ
ハーリンゲイ区に残された最も大切なコミュニティ・スペースを守れ

という要求に並んで、以下の4点が明確に謳われていた。

  • ジェントリフィケーションは人種差別である。
  • ジェントリフィケーションは家父長制的である。
  • ジェントリフィケーションは階級差別である。
  • ジェントリフィケーションは反コミュニティ的である。

 各ポイントの論旨は省略しているので、[http://www.arsvi.com/2010/20170621mk.htm]で確認してほしい。また、アピールの最後の部分がメンバー2名によって(英語とスペイン語で)読み上げられている映像を[https://twitter.com/londonlatinxs/status/851014277037260800]で視聴することができる。
 ここで注目すべきなのは、彼女たちが、目の前にある問題の本質でありかつ自分たちが対峙する「敵」であるのは「ジェントリフィケーション」だということを、これ以上ないほど明確に認識し、指摘している点である。ジェントリフィケーションが有する抜き差しならない「政治性」を、まさにフェミニストとしての視点から、鋭く抉り出していることである。
 フェミニストとして、というのは以下の3点に象徴されている。
① 要求のなかにある(そしてグループ名でもある)「ラティンクス(Latinx)」という言葉は「ラティーノ/ラティーナ」に替わるジェンダー・ニュートラルな用語であり、トランス・クィア・ノンバイナリーの人々を含む。
② 「セーフ・スペース」はLGBTQIAならびにフェミニストの活動においては(「セーファー・スペース」を用いる主体も多いが)必須の設定項目であり、ゆえにこの必要性を掲げていることは、その活動主体が性的多様性ならびにそれを重視する姿勢を有していること一定象徴している。
③ ジェントリフィケーションにはジェンダーの問題(家父長制)が内包されていることを、人種・階級といった側面と並列するかたちで(それらと同等の重要性をもつものとして)指摘している。
 こうした点をふまえて、次のことを指摘したい。
 〈ロンドン・ラティンクス〉の存在は、フェミニストとしての視点・立場から、反ジェントリフィケーションの運動の枠・射程を拡張し、より大きな問題化(問題の政治化)を可能にし、そして目指すべきコミュニティの姿をより公正なものにするうえで、非常に大きな意義を有している。反ジェントリフィケーション運動が、真に力強い、現実的な多様性を担保した、自律的な空間管理主体として確立するためには、このような存在を内/外から醸成・召喚し前面化する、そのうえで連携・協働していく必要があるのではないか。
 今回のコラムでは以上のことを指摘するのにとどめるが、今後もこれに関連する事例を定期的に紹介・検討していく予定である。
 最後に、彼女らが読み上げたアピール文の締め括りの言葉を挙げておこう。
 「ジェントリフィケーションに抵抗せよ!」


■Reference
◇The London Latinxs “Resist Gentrification!” (April 9, 2017) =村上潔訳「[アピール]ジェントリフィケーションに抵抗せよ!」(2017/06/21)http://www.arsvi.com/2010/20170621mk.htm
◇The London Latinxs “[Event] Salsa&Samba Shutdown PART II” (June 19, 2017) =村上潔訳「[イベント]サルサ&サンバ・シャットダウン パート2」(2017/06/22)http://www.arsvi.com/2010/20170621mk.htm
――
◇The London Latinxs https://www.facebook.com/thelondonlatinxs/
◇Latin Corner UK http://www.latincorner.org.uk/
◇Wards Corner Community Coalition http://wardscorner.wikispaces.com/
――
◇Dan Hancox 2016/10/21 ”London’s Latin Americans Are Bearing the Brunt of Gentrification” (VICE) https://www.vice.com/en_uk/article/londons-latin-americans-are-on-the-front-line-of-gentrification
◇Lizzie Edmonds 2016/12/19 ”Traders fight plan to demolish and redevelop Latino market in Tottenham” (London Evening Standard) http://www.standard.co.uk/news/london/traders-fight-plan-to-demolish-and-redevelop-latino-market-in-tottenham-a3423616.html
◇Harry Rosehill 2017/02/23 ”Seven Sisters’ South American Market” (Londonist) http://londonist.com/london/features/seven-sisters-south-american-market
――
◇Tanisha Love Ramirez & Zeba Blay 2016/05/07 ”Why People Are Using The Term ‘Latinx’: Do you identify as “Latinx”?”(HuffPost)http://www.huffingtonpost.com/entry/why-people-are-using-the-term-latinx_us_57753328e4b0cc0fa136a159

【追記(2017/07/14):Reference】
◇Usayd Younis & Cassie Quarless “London Latinxs: Building Affinity Groups, Fighting Oppression”, STRIKE! Issue 15 (MAR-APR 2016): 29 =村上潔訳「ロンドン・ラティンクス――アフィニティ・グループを作り、抑圧と闘う」(2017/07/11)http://www.arsvi.com/2010/20170711mk.htm