ここ数年間で、「ジェントリフィケーション」という言葉の認知度は日本でも高まってきました。とはいえ、世界中の都市を席巻しているその巨大な力がいったい何であり、それと対抗すべき方法はいかにありうるのかは、まだ明確にされていません。それゆえ、海外の事例のみならず、日本の過去や現在において積み重ねられてきたジェントリフィケーションに抗する闘いの貴重な経験を記録・分析し、それらをみずからのものして共有していかねばなりません。このウェブサイトは、そのためのアーカイブであり、共同研究の場です。情報交換の場、そして情報を交換する行為そのものが抵抗の力となり闘いの場となることを願って、このサイトを立ち上げました。

私たちは、以下の認識を共有しています。

反ジェントリフィケーションの闘いは、同時に、資本主義そのものにかかわる闘いである

ジェントリフィケーションは、私たち都市に生きる者がともに生活するなかでゆっくり作り上げてきた風景や雰囲気、空間のあり方や利用の仕方、そこから生まれるあらゆる記憶を、たくみに利用しながら剥奪します。その目的は、利潤を生みだすために管理された空間へと都市を商品化することです。空間を資本蓄積の手段にするそうした権力に対して、都市の住民は強く抵抗してきました。

そのような抵抗が訴えかけているのは、第一に、都市に生きる者が主体でありうるための権利であり、住むための場所を収奪されない権利です。つまり、私たちが生きる空間や生活にかかわる政策は私たち自身が決定すべきだ、という民主的権利を求めているのです。第二に、それらの権利を実現するには、資本の指令に左右されない都市生活を獲得しなければなりません。なぜならジェントリフィケーションの根本には、明らかに「階級」の権力が働いているからです。そして最後に、富や財産や資本の有り無しを決定する階級の権力には、人種やエスニシティ、ジェンダーの要素が分かちがたくからみあっています。貧困地域として見なされ長いあいだ「下町」的な紐帯を維持してきたマイノリティの居住地が一掃されるというような事例は、ジェントリフィケーションの典型的なパターンです。そこにはレイシズムや排外主義がしばしば陰に陽に組み込まれ、分断統治が行われてきました。したがって、ジェントリフィケーションに抗する闘いは、エスニシティやジェンダーによる分断を克服する階級闘争を可視化し、空間の民主化を進展させることが必要となります。

ジェントリフィケーションは、言説と表現の闘争の場である

開発業者やかれらを後押しする政策立案者は、「ジェントリフィケーション」を肯定的な言葉へと塗り替えようとし、他方ではジェントリフィケーションという言葉そのものの使用を避けようとします。「ジェントリフィケーション」という言葉が、どうしても階級の権力や階級闘争を喚起してしまうことが、その理由のひとつでしょう。そこで「都市再生」や「まちづくり」という、いっけん有益無害であるような言葉がその代わりに使われています。言葉の置き換えや意味のすり替えにより現実の権力を隠蔽する言語戦略は、近代の国家や企業が開発してきた大衆意識操作の典型的な手段です。「ジェントリフィケーション」はまさにそのもっとも著しい例です。それゆえ、目の前の現実を「ジェントリフィケーション」と名指し、その階級的意義を追究することは、権力の戦略を冷厳に分析することに他なりません。私たちはそのような分析を通じて進行中の闘いを明らかにし、その可能性を見極めようとしています。

都市戦略としてのジェントリフィケーション

ジェントリフィケーションとは、資本が都市を支配しようとする時に用いる戦略のひとつです。資本はそれ以外にも都市を支配するいろいろな戦略をもっています。たとえば、公共空間や公的インフラの「私有化」(この言葉は「民営化」という言葉で歪曲されてきました)もまた、ジェントリフィケーションとあわせて批判的に検証すべき都市戦略のひとつでしょう。ほかにも、オリンピックのようなメガイベント、警察の蛮行や貧民の犯罪化、移民/女性の隔離と管理、報復主義/失地回復主義、そして軍事化にいたるまで、さまざまな戦略があります。ジェントリフィケーションは、このようなさまざまな戦略が組み合わされて成り立っています。資本主義が世界各地でどのようにジェントリフィケーションを組み立て作動させているかを分析し、それに対抗する多様な都市のデモクラシー闘争を描き出すことが私たちの目的です。