シンポジウム「日本一人情のある街、西成がなくなる!?」にあたって

2019/01/31 原口 剛

 ここでは、2019年1月5日に開催されたシンポジウム《日本一人情のある街、西成がなくなる!?》での、私(原口)の発言内容を掲載します。当日は、司会者からの問いかけに応答するかたちで応答しました。

Q.ジェントリフィケーションとはなにか
――― 世界の都市ではどこでもそうですが、釜ヶ崎のように、貧しい労働者が暮らす街は、だいたい都心にありるものでした。そのような地域から労働者が住めなくなったり、追い出されたりするということが、この30年~40年のあいだに世界の各地で起こるようになりました。この世界的な現象を、「ジェントリフィケーション」といいます。
 そのジェントリフィケーションが、釜ヶ崎でもついに起ころうとしています。きっかけは、「西成が変われば大阪が変わる」という橋下市長の発言でした。ジェントリフィケーションの標的となるのは、都心部の貧しい労働者の地域です。そのような地域というのは、都心部にありながら家賃や地価が安い(だからこそ貧しい人びとがかろうじて住むことができたのです)。もともとの地価が安いがために、不動産業者やデベロッパーはその地の開発から莫大な利益を生み出すことができます(参考:「用語解説(1):地代格差論」)。
 またとくに釜ヶ崎や西成の場合、関西国際空港や新幹線へのアクセスが抜群に良いという条件が、そこに重なっています。ただ強調しておきたいのですが、釜ヶ崎界隈の交通アクセスが良くなったのはせいぜい50年前の話で、そのずっと前、およそ100年前からドヤが存在していました。だからこの地に誰より長く住んできたのは、ドヤの宿泊者である貧しい労働者です。にもかかわらず、橋下市長の発言ののち、「経済的な機会にあふれ交通の利便もよい都心を、貧者に占有させたままにしてはならない」という論調が勢いづきました。「西成特区構想」はこの発言をきっかけとしてはじまったわけですが、少なくとも市長が狙っていたのは、まちがいなく釜ヶ崎のジェントリフィケーションです。

Q.貧しい人びとはどのように追い出されていくのか
――― 追い出しには、おもに3つのパターンがあります。ひとつには、①行政代執行のように強制や暴力によって立ち退かせる、直接的な排除があります。これはきわめて目に見えやすい排除ですが、しかし、排除のかたちはそれだけではありません。もうひとつ、②家賃や宿代、土地の値段が高くなっていって、じわじわと追い出されるパターンがあります。ある程度の長い時間をかけて起こる、間接的な排除です。間接的ではありますが、これこそ広くみられる現象で、もっとも注意すべき排除のかたちです。またこのほかにも、③街の雰囲気が変わり、ずっと住んでいた労働者や住民が居づらくなって追い出されるパターンがあります。いわば、「雰囲気による排除」です★01。

Q.釜ヶ崎でジェントリフィケーションは起こっているのか
――― ①の直接的な排除については、当日の報告にあったように、すでに行政代執行が起こっています。また②の間接的な排除についても、すでに起こっている可能性があるし、このままでは間違いなく起こってしまうでしょう。決定的なのは、〈星野リゾート〉の進出です。これまでにない高級リゾートが釜ヶ崎のすぐそばに現われることになります。その影響はかならず近隣に拡がるだろうし、地域一帯の宿代の上昇や地価の上昇を起こす引き金になるでしょう。
 そう考えると、「あいりん総合センター」がなぜ重要な存在なのかが分かります。現状のセンターは、新今宮駅前の大通りに面して建っていて、まさに「労働者の街」を象徴しています。その分厚い存在感は、ジェントリフィケーションの波を食い止める防波堤になっています(たとえばイギリスの都市では、公営住宅はジェントリフィケーションを防ぐ存在であったといいます)。もしこのセンターが取り払われて、駅前の跡地が小洒落た商業施設や監視カメラ付きの広場へと変えられたら、なにが起きるでしょうか。駅前の大通りをはさんで、北側には〈星野リゾート〉のホテルが建設されます。また東側をみると、阿倍野ではハルカスの建設や天王寺公園のリニューアルによって、すでに街は塗り替えられています。オセロにたとえるなら、両方の角をひっくり返されたような構図になって、大通りが丸ごと塗り替えられるでしょう。その影響は、オセロの盤面の全体に、つまり釜ヶ崎の全体におよぶことが危惧されます。

Q.街の「人情」は無くなってしまうのか
――― これは、③の雰囲気による排除にかかわる重大な問題です。考えられるのは、たんに「人情が無くなる」のではなく、一方で「人情」がやたらと強調されたり演出されたりしながら、他方で人情が潰されていくという事態です。これを考えるうえでは、「生きられる人情」と「売りになる人情」を分けることが肝心です。
 ジェントリフィケーションは、ただ街を均質なものにさせたり、ユニークさを消し去ったりするものではありません。むしろジェントリフィケーションは、「売り」になるような街のユニークさを必要とするし、無理矢理にでもつくりだそうとします★02。だから、釜ヶ崎の「人情」や「下町らしさ」は、「お客」や消費者を呼び込むための「売り」として残されるだろうし、過剰に演出されることにもなるでしょう。
 しかし、「売りになる人情」と、もともとの「生きられる人情」とは、似ているようでまったく違います。その「生きられる人情」を映しだしたのが、『月夜釜合戦』だと思うのです(参考:「[詩]女と水と導火線――『月夜釜合戦』に寄せて」)。この映画は、「生きられる人情」と「売りになる人情」とはどう違うのかを考えるうえで、手がかりを与えています。たとえば、「におい」という要素です。『月夜釜合戦』のおもしろいところは、映像作品でありながら、画面のすみずみに街の「におい」を感じさせることだと思います。
 じっさい釜ヶ崎や東京の山谷のような、労働者の生々しい生活空間は、その土地に独特の臭いを生み出すものでした。この「におい」は、そこに住む労働者にとってはなじみのものでしょう。けれども、「お客」や消費者として外部からやってくるような人びと、とくに裕福な人びとにとっては、顔をしかめるようなものとしてあります(嗅覚というものは、階級を敏感に察知する器官であるように思われます)。「生きられる人情」が「売りになる人情」へと変えられていくときに消し去られるのは、たとえば「におい」ではないでしょうか。言い換えれば、「雰囲気による排除」のひとつの兆しは、「においの消失」であり、「脱臭」ではないでしょうか。
 このような事態は、アートとジェントリフィケーションの関係を重ね合わせて考えると、よく理解できます。たとえばニューヨークのSOHOのジェントリフィケーションを考えてみましょう。そのはじまりは、倉庫街に貧しい芸術家が住み込み、自分たちの活動の場としたことでした。かれら芸術家の活動はやがて世間の注目を集めるようになり、倉庫街の薄暗いイメージをアートの拠点へと変えていったのです。しかし、そのようにイメージが変わることで、消費者や投資を呼び込むことになり、ジェントリフィケーションが引き起こされました。そうして家賃が上昇することで、最初に住み出した芸術家は追い払われてしまったのです(高祖 2007)。「人情」についても、同じことが起こりえます。もともとの「生きられる人情」とは、その土地に住まう労働者や住民が生きるなかで、長い時間をかけて生み出したものであり、いわば民衆が共同でつくだした共有物です。ジェントリフィケーションはそのうわずみを刈り取り、「売りになる人情」へと仕立てながら、そもそも「人情」を生み出した担い手を追い払ってしまいます。肝心なのは、そうした事態を引き起こさせないことだと考えます。

Q.ジェントリフィケーションに立ち向かうために、なにが必要か
――― ジェントリフィケーションは、資本主義に深く根差したものであるだけに、食い止めるのがきわめて難しい。そのことは、率直に認めなければなりません。だからこそ、確固とした意志や理念が必要となります。ジェントリフィケーションを食い止めようとする試みとして、たしかに政策提言やコミュニティプランニングの試みも世界的になされていますが、私の考えでは、それだけでは限界があります。なぜなら、ジェントリフィケーションを食い止める政策を実行するためには、都市政治そのものを変えなければならないからです。現状の大阪市・大阪府の政策姿勢は、ジェントリフィケーションを食い止めるどころか、企業や資本にとって有利な環境をつくり出そうとひた走っています。ジェントリフィケーションや公共空間の民営化(私有化)を意図的に推し進めようとしているし、さらには万博まで誘致させてしまいました★03。政策の力をもってジェントリフィケーションを食い止めることを目指すなら、そのような都市政治の基本姿勢を変えなければなりません。
 だから必要なのは、都市政治そのものを問題視し、変革させるような運動や闘争の力だと考えます。じっさい世界各地のジェントリフィケーションや土地開発への対抗運動は、スクウォットなどの直接行動を繰り広げてきましたし、いまも繰り広げています(参考:「トリノの路上から(1)NO TAVについて」)。直接行動は、世界的には、もっとも基本的で重要な対抗の試みだといっていいでしょう。しかし日本国内では、社会運動のなかでさえ、直接行動を「過激な行動」として退ける風潮が強まっています。たとえば世界各地のデモでは、やがて自発的な直接行動へと展開していくのは当たり前のことですが、これが日本で報道されるときには「一部が暴徒化」と報じられてしまいます。事実はさかさまで、直接行動の力がさまざまな可能性を押し広げ、人びとの力となってきたのです。いまの日本の状況のなかでは、直接行動が「時代遅れの行動」や「騒ぎ立てるだけの行為」とみなされ、孤立させられがちです。けれど研究者の立場から言えるのは、世界的にみるならば、そのような直接行動こそ世界的基準だということです。またそれは、釜ヶ崎や野宿の現場で長く受け継がれた伝統でもあります。

 最後に、ニール・スミスの次の言葉を引用しておきたいと思います。

パリやロンドン、アムステルダムやニューヨークのスクウォッターやホームレス支援の活動家は、彼らがある単一の闘争を戦っているのだということを、自分の活動を通じて申し分なくはっきり知っている。……ジェントリフィケーションが再開されたとなれば、報復都市はさらなる分裂を刻みながら、いっそう強固になるであろう。……そこにおいて新たなる都市のフロンティアの行方は、より陰惨かつ危険なものへと塗り替わるだろう。だが、勝利するよりも敗北することが多いにもかかわらず、スクウォッターやホームレスの人々が住宅への闘争をすぐにでも諦めてしまうような兆候は、どこにも見当たらないのだ。(スミス 2014,83-84頁.)


■注
★01 ピーター・マルクーゼ(Marcuse 1985)は、立ち退き(displacement)には「直接的な立ち退き」以外にもさまざまな様態があると論じている。ここで「雰囲気による排除」と述べたことがらは、彼が「立ち退きの圧力(displacement pressure)」と呼ぶものに相当する。
★02 この論点の理論的背景については、デヴィッド・ハーヴェイ『反乱する都市』の第4章「レントの技法――文化資本とコモンズの攻防」を参照。
★03 万博によって引き起こされるであろう都市空間の浄化については、北川眞也「大都市化するミラノに抗する「反万博の会」(1)――退廃・装飾・品位の暴力」を参照してほしい。

■文献
◇高祖岩三郎『流体都市を構築せよ!――世界民衆都市ニューヨークの形成』青土社、2007年.
◇スミス,N.(原口剛訳)『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』ミネルヴァ書房、2014年.
◇ハーヴェイ,D.(森田成也ほか訳)『反乱する都市――資本のアーバナイゼーションと都市の再創造』作品社、2013年.
◇Marcuse, P., 1985, ‘Gentrification, Abandonment, and Displacement: Connections, Causes, and Policy Responses in New York City’, Journal of Urban and Contemporary Law 28: 195-240.