大都市化するミラノに抗する「反万博の会」(1)――退廃・装飾・品位の暴力

2017/08/31 北川 眞也

 一昨年、ミラノで万国博覧会(Expo Milano 2015)が開催されたことを覚えているだろうか。2015年5月1日から10月31日にかけて催されたそれには、2,000万人以上の人びとが訪れたそうだ。日本のメディアでは、日本館の人気がすごかったという話ばかりだったように記憶している。ちなみに、この万博のテーマは、「地球に食料を、生命にエネルギーを」であった。当初、ミラノ万博は、かつての経済や技術の発展を主題としてきた万博とは異なり、発展の限界についての「グリーン万博」として開催されるべきだという意見も提出されていた。万博会場などの基本計画の作成に関わったステーファノ・ボエーリのような有名建築家も、経済危機における飢餓や貧困、食糧供給の持続性、気候変動の問題などが主題となることを期待していたようだ。そして現在、かれらは言う。「万博は見事に成功した」と。
 しかし、万博は万博である。どれほどクリーンとかグリーンだとか言われようとも、その本質は変わらない。土地を奪うこと、搾取すること、利潤を生み出すこと、階級的支配権力を強化すること、そして万博「以後」に適用されるべき社会統治のメソッドを実験に移すこと。ミラノの活動家ルーカによるなら、ミラノの万博の「内実」をめぐって、あるいは万博が描こうとする都市の姿をめぐって様々な議論がなされようとも、万博は結局「空っぽの箱」にすぎない。それは、すでに進行している都市空間の編成過程、そしてジェントリフィケーションをさらに進行させるための口実なのだ。万博はいわば、そのための好機として既存の支配階級によって利用される。「メガイベント」や「大事業」は、ジェントリフィケーションの過程をさらに加速させる装置として重宝されるのである。それゆえ、「地球に食料を、生命にエネルギーを」などいかなる理念が掲げられようとも、それはただの「装飾」でしかない。
 「装飾」。ミラノ万博の準備段階においても、すでに「装飾」はみられた。2007年10月22日から26日にかけて、パリの国際万博委員会がミラノを訪問した。それは、開催地をめぐって、イズミル(トルコ)と争っていたミラノの審査を行うためであった。この審査にさいして、ミラノではI LAV MILANというキャンペーンが展開された。LAVとは、英語のloveとイタリア語のlavareをあわせたものである。lavareとは「洗う」、「洗濯する」という意味だ。以下、当時の新聞記事の一部抜粋である。

「…ミラノは万博の審査に向けて準備をしている。副市長リッカルド・デ・コラートとともに言うならば、「都市にできるだけ最良の顔つきを与えるべく働こう」。クリーンになる都市、きれいな都市、たとえば、ミラノ中央駅においては、工事現場を「隠す」ために、スカラ座の技術者たちもまた雇われている。かれらは、一種の遠近画法のように、工事現場の足場を覆い隠す緞帳について学んできた人たちだ。加えて、それを照らすライトの位置についても学んできた人たちである。しかし、中央駅の美的かつ人間的「改良」は、清掃とメーキャップのとんでもない計画のただの一章に過ぎない……
 どこを掃除するのか? 今とは別のミラノを創出するのは不可能ではないのか。メーキャップの全般的なオペレーションは、今回の訪問が確実に立ち寄ることになる2つの「レッドゾーン」に集中する。ひとつは、市庁舎周辺の歴史的中心地区と大聖堂のあるエリア、もうひとつは中央駅だ。2つのエリアを隔てる行程にそうかたちで、労働者たちは道路を検査し、すべての生じうる路上のでこぼこを整えなくてはならないだろう。他方、水道と下水設備を管理するミラノ・メトロポリターナ社は、排水溝の網を検査し、それが詰まっているのを掃除せねばならないだろう。10月には雨が降りうる。水たまりも水の氾濫もよい概観ではないのだろう。
 ミラノ環境サービス社は、歩道、路上、広場の掃除に専念しなければならないだろう。様々なグラフィティの消去についてもだ。そしてまた、市では中心部の路上の張り紙・ポスター、植木箱、破損したゴミ箱の調査を交換のために行った。交換されるべき破損物のなかには、中央駅の外にある、ドゥーカ・ダオスタ広場を舗装する庇とブロックも載っている。実際、評価委員の訪問について、モラッティ市長はできるだけ注意深くあるようにと命令を下している。極めて用心深い調査員たちの移動と行程。というのは、それはテレビカメラからは遠いところでなされなくてはならない仕事だからである。
 それはまた、結成されたばかりの「反万博の会」の何らかの異議申し立ての危険を避けたいがためでもあろう。また別の危険はストライキだ。入念なやり方で、派遣団をマルペンサ空港に降り立たせないようにしたのは偶然ではない。マルペンサでは、空港拡張をめぐっていろいろと荒れている。それは、2015年に数百万人の訪問者を迎えようとする都市にとっては説明困難なことなのだろう。リナーテ空港のほうがよいというわけである。おそらくローマに立ち寄ることにもなろうが。他方で、万博会場となるロー-ペーロ(Rho-Pero)のフィエラ(見本市)には、評価員たちをヘリコプターで連れていくこととなる。かれらに将来のパビリオンが建設されるエリアを見せるためだ。しかし、ヘリコプターを用いるのは、フィエラの周辺に開けっぴろげになったままの工事現場の間をジグザグに進んでいくのを避けるためだと思われている……」(La Repubblica紙 2007年10月4日)。

 このオペレーションの目的は、「ルーマニア人のひったくり、麻薬密売人、駅の入り口で野宿している無一文者」などの「問題を起こしそうな人間たち(*1)を遠ざける」こと、ミラノ都市景観を「きれい」にみせることである。ただし、国際万博委員たちの訪問にさいして、あくまでも一時的にこのような装飾がなされているわけではない。むしろそれは、現代のミラノ都市空間、いや各地の都市空間においては恒常的なものとなっている。「装飾」は、昨今のジェントリフィケーションにしばしば伴ってきたイデオロギーでもある。「装飾」をほどこせば、暗い地域、荒れた地域、退廃した地域は、明るい地域に、品のある地域に、落ち着いた地域になると。
 イタリアでは今年に入って、都市に「装飾(decorazione)」、否、「品位(decoro)」を求め、それを維持することを求める政令(移民の排除・追放を強化する内容も含む)が制定された。その影響は恐るべきものがあるが、2017年5月の右派系新聞il Giornaleでは、中央駅近くでなされる移民の自殺が、都市を「退廃(degrado)」させる品のない行為として吊るし上げられていた(つまりこういうことだ。完全に私的に孤独に死んでくれ。自殺からいっさいの社会的・政治的意味を自分で剥奪しなら)。さらに、ホームレスの若者同士の路上セックスが、都市の体面を損なう行為として言及されていた。しまいには、こうした「退廃」をもたらす連中が、ジェントリファイされる品行方正な地区の内側へと入り込んできていることが厳しく批判されていた。路上での飲食、路上で勝手にたむろすること、そして立ち小便。路上の物売り、物乞い、グラフィティ、麻薬の密売。こうした行為・人物は、空間的に不可視とされなければならない。だから、公園などの空間の使用時間、特に夜間の使用時間も制限される。「ゼロ・トレランスから品位へ」。すべてはモラルの問題とされる。ローマの大都市ウェブジン「ディナモプレス(DinamoPress)」上で、「品位」について批判的な議論が積み重ねられつつあるが、要するに、「品位」とは(また「装飾」もか)、階級をめぐる問題なのだ。「品位」は常々、富裕な連中の観点において定義される(*2)。
 最後に、先に引用した新聞記事の最終段落において、何かしら「問題」とされた2つの主体に言及しておこう。一方は、労働者、空港の労働者であり、そのストライキである。ここには、人間、事物、情報のスムーズな流れ、高速の流れ、心地よい流れを妨げることの政治的な意味が、それと知らずにほのめかされているよう思われる。それは、労働者大衆の出会いや寄せ集まり自体が、下手をすれば「品位」がないと罰せられうる状況で、こうした振る舞いがもつ政治的な意味だ(また今度考えたいことである)。
 他方は、「反万博の会(comitato No Expo)」である。反万博の会とは、ミラノが候補地に立候補してから結成された、ミラノとその周辺地域の諸運動からなるゆるやかなネットワーク組織である(2007年7月結成)。ミラノ万博に反対する人びとがいたということは、あまり知られていないかもしれない。実際、「反万博の会」の活動家でもあるルーカは言う。ミラノのような大都市でこうした活動をするのは本当に困難なことだと。万博に反対する政党は当然のように存在しないが、すでに労働、失業、不安定性、土壌や大気の汚染、放置される地域など、様々な問題があるなかで、いまさら万博だからと言って、人びとにその「有害性」を認知してもらうことは難しい。だから、大規模な影響力を発揮することもなかなか困難であると(2013年8月に、筆者がミラノの研究者に反万博の会について話してみたところ、そのような運動があるとは知らない様子だった)。
 けれども、2015年5月1日の万博の初日に、様々な集団によって準備された反万博メーデーデモが行われて、それに5万人ほどが参加したこと、そしてそのときに「反万博の会」とは別に、武装した300人ほどの「ならず者たち(teppisti)」たちが、「すべてを粉砕する」として、都市空間にある無数の事物を破壊した、無数の火を放ったという事実もある。メディアはかれらをブラックブロックという「人びと」の仕業だとした。この「ならず者たち」は、とりわけ数々の銀行を破壊した、そして警官隊と衝突した。「都市ゲリラ」。いつものようにこの表現が用いられた。「連中は民主主義的なデモをだいなしにした」と、左派の運動や知識人からも批判的言明が相次ぐなか(このあたりは別途検討されねばならないが)、ビフォことフランコ・ベラルディはこう言った。たとえば、ギリシャをめぐる問題において露骨に明かされたように、とっくに民主主義は死んでいる。国民投票によって示されたギリシャの人びとの意志ではなく、何より優先されるのは、銀行システム、金融権力による決定、つまり資本主義の論理である。問題となっているは、民主主義でもないし、法権利でもない。それは、生と死以外の何ものでもないと(と同時にビフォは、金融権力はヴァーチャルなアルゴリズムの内部にあるがゆえに、銀行のガラスをいくら破壊しても、金融システムを破壊したことにはならないとも述べている)(*3)。
 それが階級闘争である限り、民主主義の問題を超過する。当初、万博は、シルヴィオ・ベルルスコーニ政権を支えたレティーツィア・モラッティ右派市政によってすすめられた。だが、2011年5月、ミラノでは20年ぶりとなる左派市長、極左政党と呼ばれたかつての「プロレタリア民主主義」(1975年にいくつかの新左翼集団が合流して結党)の一員であったジュリアーノ・ピザピーア市長が誕生した。それは、翌月にひかえた、水の私営化や原発導入の可否をめぐる国民投票へ向けたNOのキャンペーンが盛りあがっていたときでもあった(投票の結果、圧倒的大多数の「反対」によって、それらは導入されなかった。だが、後々、別ルートであっさりと水の私営化はすすめられた)。けれども、先ほどのルーカは言う。ピザピーアだろうが、モラッティだろうが、何にも変わらなかったと。それどころか、ある部分では、左派市政のほうが万博へ向けてより積極的に投資や宣伝を推進したのだと。さて、現在の資本主義のもと、そしてジェントリフィケーションのもとで先鋭化するのは、民主主義や法権利の問題ではない。それは端的に、生きるか、死ぬかである。「退廃」とされた種々の人間たち、「品位」がないとされた無数の人間たちが毎日のように対峙している現実は、生きるか死ぬかである。
 ちょうど先日、2017年8月23日に、ローマでエリトリア人たちが100人ほど、警官隊によって排除された。その数日前に、居住していた建造物(2013年10月から占拠されていた。主にエリトリア、エチオピアの出身者が1,000人ほど住んでいた)から排除され、行き場を失っていたかれらは、すぐ近くの独立広場で野宿をしていた。独立広場は、ローマ中心部のテルミニ駅に程近い場所にある。要するに、地中海で「救助」された後、放置されたこのエリトリア人の男性、女性、子どもたちは、早朝の襲撃によって、再び排除、追放されたのだ。これはほんの一例にすぎない。しかし、ジェントリフィケーションとも関わる現代都市でのこうした排除や立ち退きの暴力が、地中海とその南岸において、移民を封じ込め、大量に殺害し続けている暴力と同様の地平に位置していることが示唆されているように思われるのだ。ここにおいては、もっと明らかだろう。問題は、生きるか死ぬかである。そして、生そのものである。
 こうした状況が迫りくるなかで、「反万博の会」は、結成以来、どのような対抗運動を行ってきたのだろうか。2008年3月にミラノが万博開催地に決定してからも、かれらは支配権力のそれとは異なった目線において、万博と都市についての知識を生産し、それを血肉化しようと試みてきた。東京オリンピックをめぐる状況がすでにとんでもない暴力性をみせている今、ミラノの出来事を、あらためて振り返っておきたい(次回の北川記事へと続く予定)。


*1 ただし別の資料によると、このリストは相当長い。「社会センターの若者、レオンカヴァッロ[社会センター]、コックス18[社会センター]、反ファシスト、ロマ、移民、ゲイ、大聖堂広場にいる金のない[?]ムスリム、ジェンナー通りにいる金のない[?]ムスリム、パドヴァ通りのムスリム、トロリーバスの路線90/91のポルトガル人、公園でお祭り騒ぎをするペルー人、ヴェトラ広場のナイトライフ、ティチネーゼ地区のパンクス、チッタ・ストゥーディでの屋外飲酒、ランブロ公園での屋外飲酒、抵抗するいつもの教授陣たちによって操られた学生…」。Off Topic e Roberto Maggioni, Expopolis: il grande gioco di Milano 2015. Milano: Agenzia X, 2013, p.17.
*2 http://www.dinamopress.it/news/un-deserto-umano-chiamato-decorohttp://www.dinamopress.it/news/il-nemico-della-cittahttp://www.dinamopress.it/news/un-deserto-umano-chiamato-decoro
*3 http://effimera.org/dalla-parte-dei-teppisti-di-franco-berardi-bifo/