高秉權「今は帳簿に何かを書く時だ」

 弾劾された朴槿恵に代わる新たな大統領を選出するための選挙結果を受け、2017年5月10日、韓国では革新系の最大政党、「共に民主党」の文在寅(ムン・ジェイン)が大統領に就任した。
 以下のテキストは、高秉權(コ・ビョングォン)氏によって、その数日前に京郷(キョンヒャン)新聞に発表されたものである。直接にジェントリフィケーションにかかわるわけではないが、この大規模な大衆運動は、都市空間を民衆が再掌握することと密接不可分であった。直接行動と選挙、デモクラシーの関係など、わたしたちの課題とも共有するものがあると考え、ここにアップする。
 高秉權氏は、研究者のコミューン、研究空間スユ+ノモ(※1)で長く「酋長」をつとめ、現在はノドゥル夜学(※2)の障害学究理所にて研究員。障害者夜学や刑務所など、社会で疎外されている人たちと学びを共にする「現場人文学」を地道に続けている。訳書に『哲学者と下女』インパクト出版会、2017年(今津有梨訳)がある。[yuri+Q]

(※1)大学という制度の外で研究と日常の間の距離を限りなく縮めようとする実験的空間とでも言えるだろうか。常にさまざまな講義やセミナーが自律的に運営されており、食事や散歩などを共にすることも大切にされている。現在はスユノモ104という空間がある。http://www.nomadist.org/

(※2)軍事独裁政権下で就学の機会を奪われていた重度障害を持った人々を対象にして、韓国で90年代以降あらわれる障害者夜学のうちの一つ。大学入学資格のための授業を中心に、美術や音楽、社会や哲学など幅広い学びを提供するのとならんで、脱施設/自立生活運動、バスや地下鉄の移動権闘争などを活発に行ない、2007年には活動補助制度(介助制度のこと)導入にこぎつけるなど、実際に成果もたくさん上げている。


今は帳簿に何かを書く時だ

高秉權

 数年前、外国の活動家たちに韓国の民主化運動の歴史を紹介することがあった。講演を準備しながら様々な映像資料を年代順に整理して見せた。それこそ吐き気を催させるような事件の連続だ。ところがふと歴史の中のわたしたちの希望と絶望がなんともまずいものだという考えが浮かんだ。情勢の浮き沈みの中で情勢よりも大きく浮き立ちまた情勢より早く挫折することがどれだけ多いことか。もちろん歴史の年表を手にした後世の人間が歴史的事件のうちで絶叫する者の態度を評価することは穏当ではない。1980年「五月の光州」を知る目でその数ヶ月前の「ソウルの春」に対する期待で胸を躍らせた人々を眺めることは心苦しいが、だからと言って未来に対する彼らの無知を責めることはできない。これから起きることをすでに起きたこととして見ることができる存在は神か後世の歴史家だけだ。

 最近の出来事を見るだけでもそうだ。たった一年前を思い出してみても、与党が総選挙で改憲ラインを確保するだろうという話題が出回ったものだ。けれども今はどうか。朴槿恵前大統領は監獄に入り、もう少し経てば新たな大統領が誕生する。万が一未来を知っていたなら、わたしたちが虚しい希望と不必要な絶望に陥ることはなかっただろう。だが未来に対する無知はわたしたちが決して取り除くことができないものではない。

 わたしが話をしてみたいのはその反対の方向だ。つまり、無知のために生まれる希望と絶望ではなく、希望と絶望のために生まれる無知についてだ。そしてこの無知はこれから起こることについてではなく、すでに起きてしまったか、今まさに起きていることに対するものだ。希望と絶望に陥っていると、過去をまともに記憶せず現在を注意深く眺めることもない。そうして未来についても浅はかな判断を下してしまう。そんな風に現実を回避するのだ。同じ人に対して相反する二つの感情が交差するのはそんな理由からでもある。希望に陶酔した人であるほど、絶望に対して弱く、絶望が大きいほど虚しい希望を見つけ出そうとするのが決まりだ。

 スタンダールは哲学者は銀行家に通じるところがあると語った。優れた哲学者になるためには銀行家のように幻想なしに実情を冷静に観察せねばならないということだ。わたしはこのことが優れた民主主義者になるためにも必要だと思う。金に対する俗物的執着は嫌いだが、金を貸してやった場所を正確に書き留めておき、感情に流されて自分の利益を損なうことがない貸付屋には学ぶべき部分がある。

 わたしだけなのかもしれないが、わずか数ヶ月前であるにもかかわらず、ろうそく集会があったのはもうはるかに昔のことのように感じられる。「これが国か」という絶望は絶望のまま残り、「政権交代」という希望はただ浮き立っている感情であるのみではないのか。帳簿に書き留めておいたものがないのだからこうして利子は言うまでもなく現金までも貸し倒れになってしまった。だから今でも帳簿に書き入れねばならないのではないかと思う。この数年間書き置いて来たものがないなら、この数ヶ月の間のことであっても思い出せるものを書き留めておく必要がある。わたしたちが耐え難かったのが何なのか、わたしたちがどうやって闘ったのか、その時の怒りも、闘志も、決心も、笑いもすべて書き留めて置かねばならない。そうしてこそ新しい執権者と民主主義の貸借対照表を検討することができる。

 現在は民主主義運動の視野が選挙運動へと極度に狭まっている時期だ。自分が信じる候補を当選させることが韓国社会を民主化させる道だという信念が一番強い時であり、候補たちもまた自らの記憶と意志をみんなのものとして確信している時だ。わたしたちの支配者になった衝動がわたしたちの経験に対する解釈の全権を得るように、新たな執権者はろうそく集会の原因と過程に対する記憶の相当部分を掌握することになるだろう。帳簿になければ彼はわたしたちに利子を払うどころか借りを返せという督促状まで突きつけてくるかもしれない。だから勝利者に完全な信を与えるのは謹まねばならず、彼を督促する仕事もなまけずに行わねばならない。民主主義に関する限り、指導者として選出された者は債務者であるという事実を債権者が忘れてはならない。わたしたちはいつでも勝利に陶酔した彼の目を覚ます冷や水の一杯を準備して置かねばならない。

 だからわたしも帳簿にひとつ書き記した。過ぎた4月21日、「障害者差別撤廃の日」に行進に臨んだわたしたちは大邱市立希望園でおきたおぞましい事件に抗議して大統領候補者たちの党舎へと赴いた。希望園は大邱市が設立した収容施設としてカトリック大邱大教区が委託運営をしていた場所だ。ここではこの6年の間に実に309人もの収容者が死亡し、その少なくとも29人が国家人権委員会による調査結果、「疑問死」というものだった。どうしたらこんなおぞましい事件を起こしうるのかと運営者にだけ悪態をつく人々は、障害者を隔離して収容する施設そのものがどれだけ恐ろしいものであるのかをよく知らない人々だ。有力大統領候補たちの陣営の人士と会ったわたしたちは公約集に「大邱希望園障害者収容施設即刻閉鎖」と「障害者脱施設政策促進」を記すことを要求した。ところがおとといになって大邱市から希望園の障害者収容施設を来年までには閉鎖するという発表があった。一旦、利子の一部は受け取ったというわけだ。

 これまでの6年間に309名もの人々が死んでいった希望園のホームページには「生活人へ「新たな生」の目標を志向することができる多様なプログラムの上にサービスの差別性を加えて感動を創出」するために努力するという文句が記されている。言葉と現実の格差というのがまさにこのことだ。だから、候補たちの帳簿に記された言葉だけを見て浮かれてはいけない。今は冷静に自分の帳簿に何かを書き記す時だ。(訳:yuri)

※ ここで一括して「帳簿」と訳した言葉は原文では「공책(ノート)」「일수공책(日収ノート)」と記されるもので、市場などで小規模で貸付をしながら生計を立てている人が日毎につけ、持ち運ぶノート、とのことでした。現代では貸借対照表(バランスシート)に近いものですが、日毎かつ元資本も少額でその規模で大きな違いがあるのに加えこの職には一般にあまり良いイメージがないそうです。おそらくは近代に入って、日帝時代に生まれたものだろうと言うことなのですが、その起源ははっきりとは分かりません。