2018/09/27 村上 潔
去る9月12日、新宿の〈カフェ・ラバンデリア〉で開催された、《[『支援』トークセッション:2018秋]オリンピックとジェントリフィケーション――ジェンダー・文化・アクティヴィズムの観点から》に出演しました。
私と佐藤由美子さん(〈トランジスタ・プレス〉代表)のトーク、ならびにフロアとの応答の内容については、私のほうで簡単にまとめましたので、
◆トークセッション「オリンピックとジェントリフィケーション――ジェンダー・文化・アクティヴィズムの観点から」(佐藤由美子×村上潔)
→[トーク内容(Contents of Lecture)]をご参照ください。
なお、このイベントで話された内容全体は、文字起こしされて、2019年春刊行予定の雑誌『支援 Vol.9』(生活書院)に掲載されます。少し先になりますが、刊行をお待ちください。
ここでは、あくまで私からの余録として、当日全面的には触れ(られ)なかったエピソードと、それに導かれる思考の(内側の)回路を記述しておきたいと思います。
私にとって佐藤さんは、「詩の人」。それも、ビートニク詩人の精神を受け継ぐ人。だから、主たる活動である出版という、文字で詩/言葉を表現・普及させていく行為にとどまらず、ポエトリーリーディングのような、詩を「現場」で「拡張・増幅」させていく機能と、その取り組みも重視している。私は、そのことをずっと留意していた。
詩を「現場」で「拡張・増幅」させる行為には、なにより身体性と空間性が、それから、見えない領域では歴史性が、大きな意味をもって介在している。このことは、ジェントリフィケーションについて、またジェントリフィケーションへの対抗のありかたについて考えるうえで、大いに参照する価値のある要素だと、私は考えた。
基本的にジェントリフィケーションは、経済・政策・設計・統治という「上」からの目的/枠組みによって作動する。当然ながらそこにおいて、末端の生活・再生産する身体という存在は、コントロールされ、利潤を生み出すことを期待される集合体としてのみ設定される(利潤を生み出さない群はリスクとして排除される)。ジェントリフィケーションに対抗する「下」からの運動には、往々にして見落とされがちなその身体の存在/意味に目を向け、認識を共有し、それを基準とした(新たな)共同性のありかたを示し/構築していくことが要請されると、私は考える。
特定の空間に息づく個々の身体の固有性とそれらの共同性。そのありようをつかむリアリズムこそが、いま、ジェントリフィケーションをめぐる「現場」では求められているのではないか。とても困難な課題だが、メガイベントとそれにともなう大規模再開発というマスな/マクロな権力の作動に対峙するには、その対極の目線と立ち位置がどうしても必要となる。これをスルーして、「オルタナティヴ」なコミュニティなど構想できはしないし、したところでそれは「対抗」にはなりえない(仮に下からの/オルタナティヴなジェントリフィケーションなるものを試みたとして、それは上述の目的/枠組みを部分的に先回りして代替=肩代わりするにすぎない。かりそめの「主体性」で自己肯定した運動は、行き詰まる運命にある)。
ある身体が求める空間とはいかなるものか、ある空間が誘[いざな]い・受け入れる身体とはいかなるものか。そしてその連関性は、いかなる歴史を刻んできたのか。一つ一つ、解きほぐし、確認し、気づき合っていこう。たとえば、その地で子を産み、育てること。たとえば、傷ついてそこに逃げ込むこと。そこで人に助けられ、土や木に癒されること。眠ること。食べること。語らうこと。踊ること。歌うこと。
学者はそれらを記録しなければならない。詩人はそれらを表現するだろう。しかしそれだけではない。声を発さず、文字を書かず、「作品」も残さない、無数の身体が、どの都市空間の一隅にも存在する。その存在が内から物語るもの、その複数性と重層性を感じとろう。歴史に重ねよう。そして共有しよう。響かせよう。そして学者はまたそれを記録し、詩人はまたそれを歌う。
オリンピックとジェントリフィケーション。その結合に対峙するには、まずその対極の身体性を基準に、空間を捉え直し、空間を歴史的を位置づけること。それは、個として身体と空間を溶け合わせ、歴史のなかに身を置くことであり、同時に、その個を結びつけ場の主体を立ち上げることである。これは、「運動」の「戦略」などではなく、その根底にあるはずの土壌/地層である。それなくして、運動も戦略もない。
なぜそこに公営住宅が必要なのか。なぜそこに市場[いちば]が必要なのか。なぜそこに公園(自然)が必要なのか。なぜそれらは人々がアクセスできるものである必要があるのか。それを「経済的な条件」や「社会的な権利」の問題で語る前に、認識しておくべき地平がある。そういうことだ。
と、こんなことを本当は言わなければならない、はずなのだが、トークにしろ講義にしろ著述にしろ、時間も文字数も限られている。だから具体的な「事例」を挙げ、その意義を説くことに終始する。この日のトークも、当然ながらそうなった。そこでこの場を借りて、思考の「内側」のことを少し書かせてもらった。言っていることは単純なことだ。恥ずかしくもある。ただ、私はこの前提を手放して、ジェントリフィケーションにアプローチすることはできない。おそらく佐藤さんもそうだと思う。司会を務めてくれた堅田(香緒里)さんも同意してくれると思う。それは当日、トークを進めるなかで確信することができた。それだけでも、このイベントに出られて本当によかったと思う。最後に、イベントを企画・運営してくれた方々、参加していただいたみなさんに、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
◇kiyoshi murakami(@travelinswallow)
「デトフォードのコミュニティ・ガーデン〈オールド・タイドミル・ガーデン〉(→https://antigentrification.info/2018/09/03/20180903mk/)に掲げられたバナーの文言、「デトフォードは息する(breathe)必要がある!」(https://twitter.com/oldtidemillgrdn/status/1045455988546043904)。私がこの文章(→https://antigentrification.info/2018/09/27/20180927mk/)で書いたのは、まさにこういうことです。」
[2018年9月28日10:02 https://twitter.com/travelinswallow/status/1045478937214693377]
■参考
◇村上潔 20180901 「トークセッション「オリンピックとジェントリフィケーション」出演にあたって」,反ジェントリフィケーション情報センター