ジェントリフィケーションとメランコリー――都市徘徊者Qの今年の五冊

2017/12/31 Q

【1】Jeremiah Moss, Vanishing New York: How a Great City Lost Its Soul, Dey Street Bookes, 2017

【2】Enzo Traverso, Left-Wing Melancholia: Marxism, History, and Memory, Columbia University Press (2nd Revised Edition), 2017

【3】Alex S. Vitel, The End of Policing, Verso, 2017

【4】William Clare Roberts, Marx’s Inferno: The Political Theory of Capital, Princeton University Press, 2017

【5】China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution, Verso, 2017[松本剛史訳『オクトーバー――物語ロシア革命』筑摩書房]

 ここにあげたのは、ベストというわけではなく、というのは、それを選べるほど、同時代の本をたくさん読んでないからであり、また、たまたま2017年公刊の本があがったが、決して2017年公刊に限定しようとしたわけでもない。
 また、順番もさして意味がない。【1】に、ジェレミアー・モスの本(『消えゆくニューヨーク――いかに偉大な都市はその魂を失ったのか』)をあげたのは、やはり、このブログの性質をかんがえて、さすがに直接にジェントリフィケーションがらみの本がないのはマズイか、というところである。とはいえ、このジェントリフィケーションによって劇的に変貌するニューヨークをつぶさに報告して名高いブログをもとにして再構成された本書が、すばらしい一冊であることはまちがいない。
 つい最近あかされたのだが、著者のジェレミアー・モスは実は本名ではない。本当の名はGriffin Hansburyで、ソーシャルワーカーで精神分析家であるらしい。1993年22歳のとき、NYにはじめてきた。それは、ニューヨークの「終わりのはじまりの時期」であるという。
 この本は、27章からなっていて、具体的な場所――たとえばロワーイーストサイド、バワリー、リトルイタリー、イーストヴィレッジ、グリニッジヴィレッジ、ブルックリン、コニーアイランド、クイーンズ、サウスブロンクスなどなど――の報告にあてられている章を中心に、ときにピックアップされた論点をめぐって考察をくわえた章が編み込まれる、といった具合に構成されている。その論点は、ハイバージェントリフィケーション、ネオリベラル的転回、ツーリズム、エンロン社会などである。
 序文は次のようにはじまる。じぶんの人生の最大の悲劇のひとつは、ニューヨーク市にやってきたのが、その終わりのはじまりであったという不運である、1993年は遅すぎた。70年代80年代のパンクの時代にも遅れ、50年代60年代のビートニクの時代にも遅れ、戦時の40年代にも遅れ、ラディカルな左派の30年代にも遅れ、20年代10年代のボヘミアンの時代にも遅れ、さらにはウォルト・ホイットマンたちのプロト・カウンターカルチャーの時代にも遅れた。そしてこういうのである。

「この遅れてしまった経験は、怒り、悲しみ、苦い失望の入り混じった複雑な感情とともに、わたしがニューヨークとその消失について書くすべてを、確実に駆動している。このトピックについて、わたしは冷静ではいられない。わたしは偏向しているし、それにノスタルジアに傾きがちである。読者はあらかじめこのことを知っておいてほしい。ニューヨークタイムズはわたしを「黙示録的事大化の傾向のある」「ひねくれ者」、デイリーニュースは「汚物のフェティシスト」と呼ばわった。だが、わたしはニューヨークに、映画『マンハッタン』のオープニングでのロマンティクなウディ・アレン演じるアイザック・デイヴィスのようにやってきた。すなわち、この町を「桁外れに」偶像化し、ロマン化していたのだ。かれとおなじように、わたしもまた、この本に適切なトーンを求めて格闘した。深みがあるけれども、説教くさくもなく、また怒りも抑えて、と。しかし、ニューヨークの死について、この地球上でもっとも偉大な都市の死について、いったいこぶしをふりまわさずに書けるだろうか? ニューヨークは、説教にも怒りにも、ロマンスにもノスタルジアにも値する。ニューヨークは、情熱的で怒りに充ちた擁護に値するのだ」。

 このようにいっているが、もちろん、本書は怒りと説教にあふれているわけではない。しかし、本書の読むべきところのひとつは、こうしたプロは隠しがちである感情の次元を率直に表明して、それにあれこれの考察をくわえるところにある。それをみると、ますますよくわかるのだが、そもそも、トポフィリアの欠如ないし希薄な都市論ほど、おもしろみのないものもない。著者は、みかけの冷静さを与えることはしないし、ほとんど無際限につづくニューヨークを構成したもの、商店、バー、ライブハウス、建築物、出版物などなどなどなど、消失の事例にはトラウマ的ですらある深い悲しみと嘆きの次元がともなっているが、その感情を対象化し、率直に矛盾を表明したり、さらに正当な弁明を与えたりする、その内省からあらわれるさまざまな論点や考察が、評者にはきわめて共感を誘うのみならず、有益だった。
 また、この本は、ジェントリフィケーション論や都市論を、その近年の動向や論争をふくめて明快に紹介し、消化していて、ジェントリフィケーション論入門としても最適である。かれの造語である鍵概念「ハイバージェントリフィケーション」概念も、この理論的検討のひとつの果実である。この点もふくめ、いずれこのブログで紹介したい。
 【2】のエンツォ・トラヴェルソの本。装幀について、仏語版は地味だが、英語版はレーニンのアヴァンギャルド風のイメージがノスタルジックな紙質の風化のなかにおかれるといった、よくできたものであり、手にするだけでなんとなく充実感のあるものである。また、20世紀レフト文化に深く内在するメランコリーの意味を考察した内容にしても、啓発的であるだけでなく、深く感動的である。エンツォ・トラヴェルソは、まちがいなく現代でもっとも信頼できる思想史家だ。
 【3】『ポリシングの終焉』。この本は、BlackLivesMatterをその一角とする、近年の反レイシズムの流れのなかで本格化している、ポリシング、あるいは警察の廃止をめぐる議論の動向がわかるものである。ジェントリフィケーションがレイシズムや階級差別と骨がらみであることはよく論じられる(【1】でもさまざまに事例が出てくる)が、その裏面には、深刻化する治安や監視強化とあいまった警察の暴力がある。警察制度はなにからはじまったか? それは占領下の植民地住民の管理の装置からはじまった。もともと、警察それ自体が、反乱管理、抵抗の取り締まりを主体とするものであり、そこには必然的に、レイシズムと階級問題がある。警察を改良することは可能か? 真に市民のものとすることは可能か? 不可能かもしれない。といった問いのなかから、警察のない社会への構想がはじまっている。それをいま、わたしたちは想像もできない。だが、こうした切迫した抵抗があげる、最初はだれもとりあわないような小さな夢想から、時代は変化していくこともある。
 【4】『資本論』論。資本論第一巻は、ダンテの地獄篇を構成の下敷きにしているという、仰天の構想をもって論じられた本。最初は半信半疑で読んでいたが、意外と説得力があるようにおもう。マルクスを、マキアヴェッリ以来の共和主義的啓蒙の線上の政治思想家として捉えるといった試みでもある。Jacobin誌のデヴィッド・ハーヴェイの書評をきっかけに少し論争も起きた。
 【5】は、SF作家ミエヴィルのロシア革命論。このところあらわれた類書では、たぶんこれが一番だとおもう。
 今年の日本は、右傾化に歯止めがかかるどころか、代表制下の選挙とは人民を奴隷にする制度であるという標語を地で行くような選挙の狂騒、そしてついに「神がかりリベラル」のようなものもあらわれた。モスは、【1】のなかで、旅人と観光客を比較して、観光客は「安全安心見慣れたもの」を求め、都市はその潜在的都市嫌悪にむかってみずからを改造させるとして、旅人をそれに対比させている。旅人は、都市の新奇さと遭遇と危険のなかで「みずからの地平を拡大しようとする」人間のことであり、みずからの人生の転覆にもひらかれた人間のことである。ポール・ボウルズにならえば、観光客は旅に出てすぐに自宅のことを考える人間であるが、旅人とは「帰国しないかもしれない人間」のことである。もし、戦後精神にみるべき核心があるとしたら、それはこの「旅人」の感性、「地平を拡大」したいという精神をたしかに、いくぶんかはその糧にしていたことにあるだろう。それに対して、あられもなく「王」とナショナリズムにたよりながら「地平の死守」にはげむ「リベラル」の姿、そしてジェントリフィケーションとからみあった現代都市の「観光化」が、いまの日本の精神的状況としてどこか相関しているとみえても、これには無理がないのではないか。これはおそらく、現代、とりわけ3.11以降つづく「エリート・パニック」の一徴候のようなものでもあろうが、わたしたちが、おそらく、はてしのない精神的な転落過程を生きていることは、もはやあきらかである。かつて、金子光晴は、高度成長の「繁栄」のなかで、どうか「未来についての甘い夢を引きちぎって」ほしい、と、「日本人」に懇願した。わたしたちの社会は、わたしたちが想像するよりも破滅的なのだ、と。オリンピックもそうだが、なにかにつけて「フェス」を求め、小さな高揚を求めるこの社会のすがたにあるのは、ある感情の二面性であるようにおもわれる。つまり、悲哀と上機嫌である。古い比喩だが、モスの表明する悲哀はB面であり、A面はジェントリフィケーションの上機嫌であるということだ。現代は、この高揚と悲哀とが、かつての歌謡曲のように、混成し合って微妙な色合いを表現することなく、間隔の狭い深淵によって背中合わせにある時代である。
 今年はロシア2月・10月革命から100年だった。トラヴェルソの本からの引用で終わりたい。

「そして、[冷戦崩壊から]10年ののち、あたらしい運動が、「もうひとつの世界は可能だ」と宣言ながらあらわれたとき、それらの運動は、みずからの知的・政治的アイデンティティを再定義しなければならなかった。より正確にいえば、可視的で思考可能あるいは想像可能な未来なしに、世界においてじぶん自身――その理論と実践をともに――を再創造しなければならなかったのである。それらは、それ以外の「孤児」の諸世代が、それ以前にできたようには、「伝統の創造」をおこなうことはできなかった。あらゆる敗北にもかかわらず、解読することは可能でありつづけた炎と血の時代から、予期できる結果のみえないグローバルな脅威をはらんだあたらしい時代への移行は、メランコリックな色合いを身にまとっている。しかしながら、このメランコリアは、閉ざされた苦痛と想起の宇宙への撤退を意味してはいない。むしろそれは、歴史的移行をくるみ込む、感情と感覚のひとつの星座[コンステレーション]であり、あたらしい理念とプロジェクトの探究と、喪われた革命的経験の世界への悲哀や喪とを共存させうる、ただひとつの方法なのである。退行的なものでも無力なものでもないとすれば、この左翼メランコリアは、過去の重みを回避すべきではない。それは、現在の諸闘争にオープンでありつつも、みずからの過去の失敗についての自己批判を回避しない、ひとつの憂鬱な批判なのである。それは、ネオリベラリズムのえがきだす世界秩序を甘受することはしないが、歴史の敗北者に共感をもって同一化することなしに、その知的な武器庫を一新することをなしえぬ、ひとりの左翼による憂鬱な批判なのだ。20世紀の終わりには、そのおびただしい[敗北者の]群れに、敗北した左翼のある世代総体――あるいはその残党――が、いやおうなく加えられた。しかしながら、かつての、天をも揺るがすこと[勇敢に闘うこと(storming heaven)]こそが、喪った同志たちを悼むための最良の方法にみえた時代には斥けられてきたこのメランコリアを、いま、はっきりとみえるようにすることによって、それを実りあるものにしなければならない」。