大阪に敵対する大阪

「あるいは大学に対立する大学のために」
櫻田和也・講演要旨(組合員Aによる速記録)
関西非正規等労働組合主催『どないなってんねん、大阪と大学

こんど万博が大阪にくるというので、東京新聞が大阪の中小企業に取材をしてさっそく街の冷めた声を伝えていました。たしかに大事業が必ずしも地元の経済に「恩恵」をもたらさないことを、大阪のひとたちは何度も経験している。プラザ合意のあとレーガンの新通商政策で「内外無差別」の競争入札にしろという圧力のもとで実施された関空建設工事以来、結局のところ地元の中小企業には孫請けでもくればいい方で「おいしいところ」はまわってこない。

まえの万博では(差別的な)女子学生のコンパニオンへの動員で「運動つぶしが出来た」とよろこぶ上品とはいえない男性高齢者が、いまだに誘致の背後で糸をひいている(つもりの)そんな現在。あの時代だからこその「反博」が当時あれほどの展開をみせなければ丹下も岡本もなく万博をめぐる記憶もありえないのに、歴史をかえりみることさえない想像力の貧困。いまこの地点から、本当に「未来」を考えるならば少なからずグロテスクなものでなければウソだと思いますが、この有様では、どのみち貧相なものにしかならない。

そんな万博をして、また債務超過に転落したら目も当てられないことになる。まだそこまでは決めつけないとしても、どんな突貫工事にも、その場かぎりの労働力が不可欠だという物理的な制約を、取り払うことができてはいません。かたや万博のためと大臣が国会で答弁したように当時「なんとしても必要」とされた日雇労務者の貯水池たる釜ヶ崎も、すでに無尽蔵の労働力供給源としては存在しない。むしろ(他の手段に切り替えることで)そのような場所としては(政策的に)なくしてきたというべきですが。

いまも関空連絡橋ならば(即座には片側車線が限界にせよ)すぐになおそうとしますが、北摂の地震と第三室戸とつづいた台風の爪痕は、皆さんよくご存知のとおりこの街には生々しく残されたまま。大阪市内あるいはその縁辺地域にたくさん集住している高齢貧困世帯の老朽木造住宅は、放置されているといわざるをえません。環状線から外周をながめれば一目でわかるように、吹き飛ばされた瓦屋根あるいは穴の空いた壁面、屋上のアンテナなどは倒れたまま気づかれていないのかも知れない。まして雨風をしのぐため応急的にふさいだブルーシートさえ剥がれかけたままで、厳しい冬をしのぐ家屋もめずらしくない。すべては資材不足あるいは「人手不足」を言い訳として。

瓦礫処理等の被曝労働もふくまれていた技能実習制度の実態も陰惨であれば、出入国管理法の改定も造船・建設・飲食・宿泊等の業種をならべた露骨なもので、いずれにせよ(突貫工事のみならず)資本制に不可欠のディスポザブルな(使い捨ての)肉体労働力を、こんどは外国人労働力でまかなおうとする浅薄な魂胆。最賃以下で過労死させられる差別的なところに、わざわざ来てくれるものかと思いたいところですが、技能実習生も介護労働者も留学生にしても、ブローカーみたいな連中が「調達先」現地にはウロウロしている。そこで詐欺的な人身売買まがいの手練手管で送り出してこれたし(セメント財閥のボス面した閣僚が元締をしているためか)今後もできると踏んでいる節がある。

となると、外国人労働力にたよるつもりである以上これは早晩レイス(人種)の問題とならざるをえません。もとより戦後日本の社会科学が、国境内の労働力移動あるいは移住労働者を「移民」と呼ばないだけで(海をこえてきた人々を含む)釜ヶ崎労働者には、もとから多様な組成がある。また都市が人口を吸引するものであるからには、大阪そのものが戦前から多民族都市として出来た。しかしこの差別的な情勢下において、こきつかわれる外国人労働者の激増となれば、階級闘争としての人種問題の上昇は必至。逆説的なことに、これで大阪もひさかたぶりに世界都市のなかまいりとなるかも知れません。

まえの万博の前後は、デトロイト、トリノ、リヨンなど世界の産業都市で大衆的蜂起あるいは移民労働者の叛乱が相次ぐ時代でした。そこには各々の出来事を代表するような著作とか、あるいは予見的な研究が知られています。しかしそれらにも先行した釜ヶ崎事件(第一次暴動)のとき大学研究者に何ができたか反省するならば、ところが当時わずか社会病理学しかなかった。都市スラムを「病巣」として暴動にかぎらず日雇労働者の文化を「逸脱」として、いずれにせよ治療の対象としかみることができない。暴動の背後に理性をみたものとしては、大学とは縁のない詩人とかアナキストだけがいた。たしかに河本乾次が見ぬいたように釜ヶ崎暴動とは、その「はじめから・ただちに・そのまま」港湾荷役労働者のストライキだった(オペライズモ的にいえば暴動こそ歴史の動力で万博およびインフラ建造コンテナ化などは資本の反動に過ぎない)にもかかわらず、当時このことを理解できた研究者は皆無でした。

ここが正念場で、企業内組合の組織率の低下とか役所の組合つぶしで労働運動の過去をなげいている場合ではありません。資本制というのは物理的制約の前でいつもあたらしい労働力を必要とするわけだから、組織化の方も(しんどいことですが)いつもはなから。これは歴史をみてもあきらかなことで、何かがおこるときというのは、誰かが(他人知れず)何事かをはじめるとき(から)でしかない。もし大学研究者に寄与しうる最良の方法論がひとつあるとすればともに調査をすること。何よりも敵を知ること、現実を精確に実態を把握すること、わたしたちの物質的条件みずからの境遇を、ひとびとと共有すること。そこから、はじめて理念を実現するための行動をとる可能性はうまれる。

さもなくば文明に未来はないとして過言ではない歴史的地点に、わたしたちはたたされているのではないでしょうか。